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2011年南大阪・東南地域沖縄現地学習会報告(6/10~13日)


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大阪市職労、港合同、全港湾大阪支部、連帯ユニオンから10名が沖縄現地学習会に参加しました。連帯ユニオンからは、私と執行委員の2名です。


伊丹空港を9時15分に発ち、2時間後には那覇空港に到着。沖縄は前日に梅雨明けをしていたので、初日から太陽が照りつけて暑かったです。
最初の訪問地は、嘉手納町。基地のなかに町があると言われています。戦前は北谷村(現在の北谷町)と一緒の村でした。1945年に沖縄戦終了後、住民が収容所に入れられている間に村の中央部を米軍が接収し、巨大な嘉手納基地が構築されたのです。
この基地を使って本土空襲にB29が飛び立っていきました。村は南北に分断され北谷村は、北の嘉手納町(米軍基地83%)、南の北谷町(米軍56%)となりました。
基地は、一日中ジェット機(輸送機、戦闘機など)が爆音を響かせて離発着を繰り返しています。住民は爆音がうるさいので窓も開けられない、国が防音対策として防音サッシを窓に付けてくれているが、電気代が3万円を超えてしまっているので困っている。
 


現地に建てられていた看板


 
 
米軍に思いやり予算名目で1,200億円も日本政府が拠出しているのに、米兵が日本の少女を襲ったりしても米軍基地内に逃げ込んで日米地位協定を盾に日本の警察に出頭もしてこないのです。こんな話しを聞いていたら米軍は、日本から早く出てってほしいと思いました。

 
 
嘉手納基地見学を終えて次に読谷村にあるチビチリガマにバスで向かいました。
(参考 読谷村史・資料と証言でつづる沖縄戦の記録 読谷村史第六章の証言記録)
1945年4月1日に米軍は、沖縄本島の読谷・北谷の海岸から6万人の兵士が上陸、そのときに米軍の砲撃から逃れた住民141人がチビチリガマに隠れた。

 
その住民が米軍の捕虜になるのを恐れて4月3日「集団自決」がチビチリガマ内で起こり85人が絶命し、死にきれない住民は米軍に救出されました。ガマの入口には犠牲者を慎むレリーフ(金城実製作)が置かれていました。ガイドさんの説明を聞いて黙祷をしました。

 
1日目の視察を終わり国際通りに面しているホテルへ移動、到着後ホテル内で懇親会を行いました。
6月11日は、バスで名護市の辺野古へ向かいました。ここでは、命を守る会の案内で天然記念物のジュゴンが生息する大浦湾を埋め立て、普天間基地の移転先としてV字型滑走路を建設する計画が進められています。日米政府が天然記念物のジュゴンよりも日米同盟強化のため、基地を自然豊かな辺野古の海を破壊することは許せません。

私たちは、美ら海の辺野古海岸を見学して、基地建設反対運動の支援を確認しました。
 

ゴミ」の横に「基地と」が追加されている

辺野古海岸から見える米軍基地の中にリゾートホテルのような宿舎が見えていました。その中に若い米兵が24時間エアコンを効かして過ごしているのです。(これも思いやり予算で日本政府が負担しているのです。)
宜野湾市にある嘉数高地に移動して日本軍が米軍に抵抗して立て籠もった壕を見学しました。ここでは、米軍を2週間も足止めさせたのです。丘の上には慰霊塔が3つあり「京都の塔」は、第62師団に京都府出身者が多かったので建立されました。「青丘の塔」は、朝鮮半島から強制連行され戦死した朝鮮人軍夫を祀っています。「嘉数の塔」は、地元住民で亡くなった人たちを祀っています。嘉数の住民は、弾薬運搬や炊事などに駆り出されていたため戦闘に巻き込まれ695人中347人(約半数)が亡くなりました。
 
6月12日は、対馬丸記念館を訪問。1944年に戦況が急迫する中、日本政府は沖縄など南西諸島の老幼婦女子・学童の疎開を決定して沖縄県で10万人の疎開を命じました。8月22日に沖縄から長崎へ向け航行中の学童疎開船・対馬丸は、悪石島付近で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没、乗員・乗客1,418人(うち学童775人)が犠牲になりました。 この事件は、戦争中は箝口令が敷かれていたため一部の人しか知りませんでした。戦後数年して実態が明らかになりました。
 
この後、南城市玉城にある糸数壕とアブチラガマを見学しました。アブとは深い縦の洞窟を指し、チラとは崖のことを指し、ガマは洞窟を指しています。アブチラガマは沖縄本島南部の南城市玉城糸数にある自然洞窟(ガマ)です。
このガマを日本軍の陣地壕と倉庫として使用。ひめゆり学徒隊が配備された南風原陸軍病院の分室となったところです。全長270mのガマの中に600人以上の負傷兵で埋め尽くされたそうです。1945年5月25日の南部撤退命令で病院が撤退した後も、糸数の住民と生き残った負傷兵、日本兵の雑居状態となり、米軍の攻撃に遭いながら生き残り8月22日の米軍投降勧告に従い住民と負傷兵はガマを出たのです。
ガマの中は、広いところでは立って歩ける状態でした。入口近くには米軍の攻撃で飛ばされた缶が今でも壁に突き刺さった状態で残っています。
 
昼食を済ませてから「ひめゆり平和祈念資料館」に移動しました。
糸満市伊原にある「ひめゆり平和祈念資料館」の下にあるガマには、亡くなった人達の遺骨があり、米兵は勝手にガマへ入り遺品などを持ち出したりしていたので、個人が土地を買って「ひめゆりの塔」を建立しました。ひめゆりとは、植物の花の名前とは関係なく、建立第1高等女学院「乙姫」師範学校女子部「白百合」の造語「姫百合」が、戦後「ひめゆり」となったのです。
1945年3月23日、米軍上陸作戦を開始。このときに教師18名を含む240名が那覇市南東にある南風原陸軍病院に配属され、ここで負傷兵の看護や食事作りと死体埋葬に従事しました。ほとんど仮眠も取る間もなく、米軍が迫るなか5月下旬には日本軍と共に南へ向かいました。移動した先でも米軍の激しい砲撃が続き、6月18日に「解散命令」が出され学徒たちは戦場を逃げ惑い、ある者は砲弾で、ある者はガス弾で、ある者は手りゅう弾で命を落としました。240名中136名が亡くなりました。
 
6月13日に日本軍司令部壕がある首里城を見学しました。首里城には、軍司令部が設置されていたため、沖縄戦では米軍が猛攻を掛けたため完全に破壊されました。
首里城は1992年に復帰20周年を記念して復元されました。現在も司令部壕が一部残っています。歓会門下の円錐のほとりに弾痕の生々しいコンクリートの残がいが点在しています。
この学習会に参加して思ったことは、戦争の愚かさや米軍の居ない日本にしなくては平和は築かれないと感じました。

                                     以 上

 

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