強制集団死・慶良間諸島検証の旅 rentai-union
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大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会
「強制集団死・慶良間諸島検証の旅」に参加して

 
1.大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会(以下、支援連絡会)は、3月27~29日まで沖縄県慶良間諸島へ強制集団死の検証するため渡嘉敷島、座間味島を訪問した。この訪問団には17人が参加した。3月27日のお昼に関西空港から那覇空港へ到着後、夕方には高速艇が発着する泊港へ移動し、そこで大阪から到着した14人に3人が合流し17人となった。16時30分発の渡嘉敷島行き高速艇に乗船、17時過ぎには渡嘉敷港に到着。マイクロバスで移動して島で一番の阿波連ビーチがある民宿「リーフイン国吉」に宿泊した。


2.3月28日は、「集団自決」が行われた場所や避難壕を見学した。

(1) 1944年9月に、赤松陸軍大佐隊長が慶良間第三守備隊指揮下622名(戦隊3中隊104名、勤務隊161名、整備中隊55名、朝鮮人軍夫210名、防衛隊79名)を引き連れ渡嘉敷島に進駐し、100隻の特攻艦(マルレ)が配備された。
翌45年3月23日から米軍は艦砲射撃と艦載機による機銃掃射を開始、住民は戦火を逃れて島内をさまよったのである。
そして3月28日に住民が軍から支給された手りゅう弾を使い「集団自決」するという悲惨な出来事が発生した。その現場を訪れ史実をつぶさに聞き取りを行った。

3.訪問・見学した場所は次のとおり。

(1) 最初に海が見渡せる北山(にしやま)展望台(戦後、米軍がホーク基地を配備していた場所)で1945年3月23日からの米軍による砲撃の状況説明を受けたあと、直ぐ近くにある集団自決碑の前で当時の「集団自決」を行った模様を克明に報告された。
ここでは1945年3月28日、軍から支給された手榴弾で住民が「集団自決」、それでも死にきれなかった人たちが棍棒や鍬などで互いに頭をなぐりあい凄惨な死にいたった。絶命した渡嘉敷村村民は325名、手榴弾で一命を取り留めた者が336名残った。
赤松隊が米軍に投降する8月21日までに、住民6名と少年2人がスパイ容疑などで軍刀で処刑されている。また、島には朝鮮人軍夫が居たが行方はいまだに不明である。

(2) このあと慰霊碑がある「白玉の塔」に移動し、明治以降終戦までに戦争で亡くなった兵士、軍属、住民の名が刻まれた礎に訪問団として献花を行った。

(3) 続いて阿波連近くにある民間壕を見学(小山の中腹に横穴を掘っていた)米軍の攻撃から家族を守るため6ヶ月かけてトンネルを掘ったと報告された。

(4) 島の南にある山の中腹に「アリランの碑」がある。このモニュメントは、渡嘉敷島に勤務した朝鮮人従軍慰安婦ハルモニ(韓国名 ペ・ポンギ)が戦後も母国に帰らず、水商売をしながら沖縄に残留し、最後は那覇市のアパートで亡くなった時に慰霊碑の建立運動があり1997年10月当地に建立された。

(5) 最後に渡嘉敷ビーチ近くに「特攻艇壕」を見学、この壕は村指定戦争遺跡に指定され厳重に保存されている。ここには、特攻艇「マルレ」を格納していた。壕は、過酷な労働のもと、朝鮮軍夫が黒色千枚岩という堅牢な岩石をくり抜いて建設された。

(6) 見学が終わり民宿近くの食堂で昼食をとった後、民宿のロビーでガイドさんを囲み懇談した。
ガイドさんは住民がなぜ「集団自決」したのか、これは沖縄戦が本土防衛のための持久戦と位置づけられ「軍官民共生共死」という方針が徹底され、日本軍による住民虐殺と、軍命、強制、誘導で住民が追い込まれたのであると報告された。

4.夕方、阿波連港よりチャーター船で座間味島の座間味港へ約40分かけ渡った。雨の影響もあり波に揺れた。到着後、民宿「みやむら」へ移動し、17時からガイドさんから座間味島での「集団自決」にいたる歴史的な背景を含めて学習した。

内容は、以下のとおり
(1) 私は、07年まで37年間村役場で勤務。昨年定年退職を機会に戦跡ガイドに登録し、座間味島に関わる沖縄戦の史実を聞き取り調査をしながら報告集に編さんして発表する取り組みをしている。
昭和15年、紀元2600年の年に座間味島で忠魂碑が建立された。台座に「うみゆかば」が刻印されているのは、座間味の忠魂碑だけである。この意味は、死ぬというのは、天皇のために死んでいく意味を表している。

(2) また、昭和16年に太平洋戦争が勃発し、戦況が悪化するなか昭和19年9月に日本軍が満州から慶留間諸島に1500人余りが進駐してきた。そのときに特攻艇(マルレ)が渡嘉敷島、阿嘉島、座間味島に100隻ずつ計300隻が配備された。座間味島では、住民も駆り出され、婦人部は炊き出し、青年部は物資の運搬を行った。島内の建物は軍に撤収され、郵便局は将校の会議室に、青年会館は部隊の会議室に、兵士は海岸に野営していたが台風が来たため各民家に分散宿泊した。
そのときに梅澤隊長は、「我々は戦隊であり、島を守る守備隊ではない」と島の責任者に伝えていた。また、梅澤隊長は兵士に民間人と話をするなと命令し、一方で住民に「生きて辱めを受けない」という思想を植え付けていったのである。

(3) 座間味は鰹節で有名な生産地であった。この鰹節漁していた3隻を軍に徴用され沖縄本島と慶留間諸島の連絡用に使われた。この3隻は45年3月に米軍の攻撃にあって沈没した。座間味では米軍との戦闘に備えて山中に10カ所近くの軍使用の壕が掘られた。これには朝鮮人軍夫が当たった。

(4) 昭和20年3月23日から米軍による攻撃は、8時から17時に集中しておりそれ以外の時間は攻撃は止まっていた。攻撃目標は軍がいた場所に集中しておりそれ以外は攻撃されていなかったことが最近の資料で明らになった。軍の伝令を村役場の役員が担当して住民に伝えていたため、産業組合壕には食料品や村の資料もそこに保管されていた。
3月25日に忠魂碑前に住民が集まるよう伝令があり皆が集合したが、砲弾が近くに打ち込まれたためバラバラに避難した。26日に米軍が上陸し1時間で制圧、内川山に避難した住民は追い詰められたなか、壕の中で手りゅう弾を爆発させ「集団自決」した。
産業組合壕で59名が死亡、学校職員壕では校長以下教員と職員が死亡した。
この攻撃で梅澤隊長は、特攻艇(マルレ)全隻を爆破させ、山中を慰安婦と衛生兵を連れて逃げ回り6月20日に米軍に投降したのである。  

5.夕食後、19時から「集団自決」で生き残った住民から当時の状況を聞いた。私たちとの懇談に4人が出席した。
それぞれから当時の状況をふまえながら「集団自決」に至った経緯を記憶を辿り報告を受けた。今でこそ淡々と話をされるが、当時の事を思い起こせば大変つらいことだとおもう。
※ 詳しくは、証言 沖縄「集団自決」慶良間諸島で何が起きたか
(著者・謝花直美/岩波新書)を参照。
 
6.
3月29日は、座間味島内の「集団自決」跡を見学した。
(1) 最初に忠魂碑を見学。台座には当時の艦砲射撃が当たった跡がそのまま残っていた。そのあと住民が避難していた民間壕を見学。湾近くの小高い山の裏側に掘ってあった。私は、ここなら艦砲射撃が直接受けないなと思った。

(2) 次に躑躅の塔(ツツジノトウ)跡を見学。ここは貯水用ダムが建設されたため壕は残っていないが祈念碑がそばに建てられている。ここでは、国民学校の校長や職員らが避難していた。3月26日に米軍が上陸、手りゅう弾を使って校長を中心に壕内で爆発させ20名以上が死亡した。
 

(3) 大和馬近くのバナナ畑の奥に谷があり、少し上っていくと岩壁を利用して立って入れるL型の本部整備中隊壕を見学。周辺にもう1カ所同じような壕が点在していたが崩れて中には入れないようになっている。住民がこのなかで3家族15人が「集団自決」している。

(4) 阿佐から峠を越えた反対側にある岸辺の自然洞トゥルーガマに120人近くが避難した場所を見学。海岸はコケが岩にこびりついているので滑りやすかった。ここで米軍の攻撃から避難し、引き潮のときにしか行けないヌンドゥルーガマへ移動して助かった住民が多数いた。

(5) 道路側に建つ産業組合壕跡祈念碑の前で当時の様子を聞き、ここでは町役場職員と家族が20人「集団自決」されている。

(6) 最後に本部壕跡を見学、道路側の急斜面を登っていくと壕が3カ所あった。この中で梅澤隊長以下衛生兵や慰安婦などが避難していた。整備された道路に立つと林の中に壕が残っていたとは、思いもしなかった。

7.まとめ
青い空と透きとおった海に囲まれ、いまではスキューバダイビングやホェールウォッチングで多くの観光客が訪れる平和な慶留間諸島で、1945年3月23日から米軍が渡嘉敷島、座間味島、阿嘉島、慶留間島で日本軍への熾烈な攻撃を行い、逃げまとう住民を恐怖のどん底に陥れ4島だけで600人余りが「集団自決」で命を絶った事実は、けっして忘れることは出来ない。
戦後64年経たなか、生存者は70才以上の高齢者となり、当時20才代であれば80才を超えている。直接生存者から聞き取りが出来るのはあと僅かである。
日本国内では、教育基本法が改悪され自衛隊が増強されるなど、憲法9条を形骸化する動きが活発化している。これを阻止する取り組みと闘いを継続させなければならない。 
現在、大江・岩波沖縄裁判は最高裁で係争中である。大阪地裁・高裁と私たち被告側が勝訴している。最高裁でも勝利するよう引き続き闘いを繰り広げよう。

連帯ユニオン議員ネット