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戦後70年 沖縄の戦跡を巡る

2月27日から3月2日まで教育部と機関紙部で沖縄を視察。戦後70年の節目の年に沖縄の戦跡を巡り過去の侵略戦争を反省し、二度と戦争のない世界を目指すためにも、多くの沖縄県民が犠牲になった戦争の悲惨さを風化させてはならない。

 
■ 沖縄陸軍病院 南風原壕群20号 (*)
沖縄陸軍病院(球18803部隊)は1944年5月に熊本で第32軍の陸軍病院として編成された。
沖縄陸軍病院の説明板一部    全体は「こちら


6月から那覇市内で活動を始めたが、同年10月10日米軍の空襲によって施設が焼失し南風原国民学校校舎に移転した。それ以来、第32軍野戦築城隊の指導のもとで、字喜屋武(黄金森)字兼城(現在の役場北側の丘)に約30の横穴壕が造られた。

米軍の艦砲射撃が始まった1945年3月下旬陸軍病院は各壕へと移った。広池文吉病院長以下、軍医、看護婦、衛生兵ら約350人に加えて、3月24日には沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒)222人が教師18人に引率され、看護補助要員として動員された。

4月1日の米軍上陸後、外傷患者の激増に対応するため、外科を第一外科、内科を第二外科、伝染病科を第三外科へと改めた。5月下旬、第32軍司令部は摩文仁(糸満市)へ撤退を決定し、陸軍病院に撤退命令が出された。

その際、重症患者に青酸カリが配られ、自決の強要が行われた。南風原町は1990年戦争の悲惨さを伝える証として、第一外科壕群・第二外科壕群を町の文化財に指定した。
南風原陸軍病院壕跡の碑   
お酒と花が捧げられている
  

 


近くにある、南風原文化センターでは、南風原・沖縄に関する歴史資料や当時の壕内が再現されて展示されている。そこには、青酸カリで自決されられそうになった兵士の証言などの記録もある。

 


平和記念公園ストリートビューは 「こちら」 
(*) 沖縄陸軍病院 南風原壕群20号 説明版

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