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大阪平和人権連帯会議(沖縄現地学習会)

南大阪平和人権連帯会議の沖縄平和学習会に連帯ユニオンから3名(全体では18名))が参加しました。日程は、6月7日から9日までの3日間で、初日は関空から那覇空港に11時過ぎ到着。女性のガイドさんと男性の平和ガイドさんが出迎えてくれました。

 

最初に糸満市にある「魂魄の塔」へ行き
献花を行い参加者全員で黙とうしました。

沖縄戦終了後、島内の各地で散乱していた遺骨の約3万から4万体を集骨し納めたて作ったのが「魂魄の塔」です。6月23日の慰霊の日には、多くの遺族がお参りに来ます。そして塔の南側には米須海岸があり、沖縄戦当時は沢山の遺体が浮かんでいたそうです。ごつごつとした岩場で、今ではきれいな海に若者たちが集まっています。

次に、南部地域の南城市の糸数壕(アブチラガマ自然洞窟)に入りました。この壕は、沖縄戦で負傷した兵士600人以上と地域の住民が避難していた場所です。

中は、それぞれの部屋が決められており、病棟・治療室・重症患者地域・トイレ・井戸・食糧倉庫・住民地域などがあったそうです。ガマの全長270mと広い洞窟でした。私たちは、懐中電灯を照らしながら見学し、当時の暗くて壮絶な環境を思い起こす体験をしました。  

   

 そのあと、ひめゆりの塔(第三外科壕では、脱出の直前米軍のガス弾攻撃を受け、生徒41名・教員5名が犠牲となった)平和祈念資料館を見学し、韓国人慰霊塔に向かいました。沖縄戦では、日本人だけではなく韓国の人を慰安婦として朝鮮半島から強制的に連行され犠牲になった人々の慰霊碑です。


その近くに摩文仁の丘公園「平和の礎(いしじ)」があります。礎は1995年6月に建設されて、沖縄戦の犠牲者になった名前(日本・韓国・北朝鮮)を刻銘しています。平和の広場には、中央に丸い形の水がはってあるモジュメントがあり、その中心には「平和の火」があります。これは、原爆を投下された広島市の「平和の灯」と長崎市の「誓いの火」を分けて火を合火し1991年の「慰霊の日」から灯しています。


広場の岸壁から美しい海がみえます。69年前に沖縄戦で亡くなられた沢山の人々がここに集まっているように感じました。最後に牛島中将が自決した場所に向かいました。平和の広場から離れた丘のうえにあり、第32軍司令部壕がある場所です。
夜の交流会は琉球料理店で、ガイドをされた2名と同じ仲間の「語りつぐ沖縄平和の会」から2名参加、それぞれから沖縄の話しを聞き、現地学習会に参加したメンバー紹介などをして交流が深まりました。


2日目は、宜野湾市にある嘉数高地を見学、沖縄本島に上陸した米軍が初めて本格的な反撃を受けたところで日本軍の防御拠点の場所。近くの展望台から(米軍普天間基地・米軍上陸海岸)などが見られます。当日は残念ながら、朝から雨模様で普天間基地も霞んでいました。その後バスで移動し、2004年8月13日米軍大型ヘリが本館に墜落し爆発、炎上した沖縄国際大学を訪問しました。この大事故が起きたときは、ニュースでも見ていましたが今回、現地で当時の写真や現場の遺留品を見て大変な事故だったことを思いました。

道の駅「嘉手納」に移動して、屋上から見える米軍嘉手納基地について違憲共闘会議議長有銘さんから説明を受けました。嘉手納基地は旧日本軍が建設した飛行場で、米軍が上陸したあと直ぐに占領され、現在まで空軍が使用しており、基地内には住宅・教会・銀行・病院・娯楽施設などがあり何不自由なく米兵とその家族が生活がしています。そのため嘉手納町は面積の83%が基地に占領され自分たちの土地も奪われています。嘉手納基地には他の基地からいろんな軍用機が飛んで来るそうです。沖縄本島の周辺で自分たちが決めた訓練空域(民間機は飛べない)で好きなように訓練をしていると聞きました。
昼食後、沖縄本島中部地域にある読谷村役場に行き「憲法9条の碑」の見学と役場には、「政府は日米地地位協定を抜本的に見直せ!オスプレ配備反対!」の看板が掲げられていました。県民たちは、いつも闘っている!本土では考えられない事だと思いました。
次にチビチリガマに向かいました。そこは、米軍上陸地点から約1km近くにあるガマで避難民141名中82名の命が「集団自決」で失われました。以前はガマの中に入って見学ができたそうですが、地域住民(犠牲者の家族)から「まだガマの中には遺骨が残っており踏まれたりされるのは辛い」と言われ、今はガマの入口までの見学です。
ガマの入り口には、亡くなった住民の名が刻まれたレリーフがあります。

地上にあがれば一面さとうきび畑で彼方に海が見えました。69年前はその海岸から米軍が上陸して来たことを考えると恐ろしかったと思います。国の為に亡くなった人たちと残された家族の思いを考えると心苦しくなりました。
ガマの近くに、金城実さんのアトリエがあり表敬訪問しました。金城さんはお留守でしたが奥さんがアトリエの案内をしていただき、最近の様子や6月・7月の展示会準備をされていることを聞きました。
金城さんの作品は、以前読谷村役場まで続く道の横にずらっと並べられていたそうです。自宅では、いろんな作品が展示されてテーマ(戦争・憲法・政治)に沿ってモニュメントなど沢山の作品が訴えかけています。

3日目は、8時に出発して名護市辺野古の「命を守る会」テントに向かいました。久しぶりに安次富さんと再会しました。
テントを構えて、3704日目で約10年の年月が経っています。普天間から辺野古沖に移設しょうとする動きが今も続いています。新基地建設辺野古V字滑走路の説明などがありました。(6月の終わりに何者かが「命を守る会」テントを荒らすことがあり、私たちも憤りを感じています。)


安次富さんは、稲峰さんが当選したことはとても良かった、でも11月の知事選が気にかかることを話していました。そのあと、砂浜に行きそこには前よりも高い基地と住民とを隔てる鉄条網が作られていました。でも安次富さんは全国から送られてくる激布などを、その鉄条網に張り付けて活用していました。砂浜には貝が沢山ありこんなきれいな海に基地絶対いらないと思いました。昼食は安次富さんを囲んでいただきました。食事をしながら参加したメンバーから3日間の感想会をおこないました。最後に団長と安次富さんからは沖縄で学んだ事を、自分たちの組織や地域に帰って基地を取りまく現状を伝えてほしいと言われました。

最後に、対馬丸犠牲者の慰霊碑(小桜の塔)と記念館に行きました。戦争が近づいてくる中、親たちは子どものために大和(本土)に学童集団疎開することが良いと思い、子どもたちに大和に行けば、安全で食料もあると言って寂しがる子ども達を送り出したそうです。1944年8月21日に那覇港を出て22日の夜10時過ぎ米軍の魚雷攻撃により海に沈められ約8割の人が犠牲となった。本当に悲しい過ぎる話しで涙が出るばかりでした。二度と戦争をする国になってはいけないと固く思いました。
いま、安倍政権は憲法9条を蔑ろにする「集団的自衛権」の行使容認を閣議で決定しました。私たちは、沖縄戦で住民を巻き込み20万人を超える死者を出したことを顧みず再び戦争のできる国へ歩きだすことに、反対の声を大きくしなければなりません。

2014年7月 現地学習会参加者より

連帯ユニオン議員ネット