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第2回・日米地位協定入門

1. 同じ敗戦国のドイツ・イタリアと韓国の地位協定
 

.地位協定は、日本だけでなく、ドイツ・イタリア、韓国など米軍が駐留する国ではどこでも結ばれています。しかし、そうした各国の地位協定と比べても、日本の日米地位協定は、明らかに不平等であると各方面から指摘されています。

.2011年12月時点の世界各国(144ヶ国)に展開するアメリカ軍兵士の人数は、19万6248人(作戦中のイラク・アフガニスタン・クウェートを除く)で、米国本土に所属する全アメリカ軍兵士の人数は141万4149人。

.ドイツでは、地位協定(1959年締結)1993年改定し、たとえ米軍基地周辺といえども国内では、米軍機が飛行禁止区域や低空飛行禁止を定めるドイツ国内法(航空法)が適用されます。

日本では航空法のもっとも重要な部分が米軍機に対して適用除外となっています。 このため、沖縄の普天間基地のように国内法(航空法)では絶対に設置出来ないような場所に飛行場が維持され、国内法では禁止されている住宅地上空での米軍ヘリや輸送機の低空飛行が実施されています。

.イタリアでは、駐留米軍は軍事訓練や演習を行うときには必ずイタリア政府(軍)の許可を受けなければなりません。

全ての米軍はイタリア軍の司令官のもとにおかれ、米軍は重要な行動のすべてを事前通告し、作戦行動や演習、軍事物資や兵員の輸送、あらゆる事件・事故の発生をイタリア側に通告する取り決めになっています。
米軍機による低空飛行は事実上禁止されており、地方自治体からの米軍への異議申し立て制度も確立され、米伊当局は必ず受理をしなければなりません。

日本では最も重要な部分が米軍機に対して適用除外になっています。
沖縄とか本土の基地周辺だけでの問題ではありません。米軍機は「基地移動」という名目で、日本全国の様々な土地の上空で事実上の飛行訓練や軍事演習を行っています。

.韓国では「環境条項」が韓米地位協定で創設されていて、基地内での汚染について各自治体が基地内に立ち入って調査できる「共同調査権」が確立されています。また、返還された米軍基地内で汚染が見つかれば、米軍が浄化義務を負います。

日本は、そうした場合でも米軍に浄化義務はなく、破壊、汚染した基地の「原状回復義務」は免除され、米軍に代わって日本政府が浄化義務を課されています。

.イラクがアメリカに占領されていた時に結んだ地位協定では、もし米軍が中東諸国を攻撃する事になっても、自国からの出撃を拒否することが出来るとされていました。
周辺国との関係が悪化するのを避けるためです。そして、出撃だけではなく上空を通るのも許可しないという、日本人には信じられないような「立派な地位協定」を結んでいました。

.ニュージーランドでは1980年代、核を積んでいる米軍艦船については寄港を禁止すると決めました。アメリカは艦船の核兵器搭載については、「肯定も否定もしないとうNCND政策」という原則をかかげています。

日本の防衛関係者は、すぐに、「NCNDなんだから、聞けるわけがないだろう」と言います。でも、ニュージーランドは「核を積んでいるとも、積んでいないとも言わないのなら、ニュージーランドの港には入れませんよ」と言いました。 ほかの国はそういうことを当たり前にやっているのに、「非核三原則」(持たず、作らず、持ち込ませず)を掲げているはずの日本だけは、積んでいるのに決まっている米軍艦船の出入国を認めています。

.準戦時国家の韓国は、米軍がどれだけの兵力をどこに置いているかは常に把握しています。万一米軍が暴発すると、自分たちが北朝鮮との戦争に巻き込まれ悲惨な目に合うからです。
韓国では反米感情も反基地闘争も強くて、ソウルから車で2時間ほどの距離にある西海岸野村「梅香里・メヒャンニ」では、住民が命がけの反対運動によって2005年8月、米空軍の射撃場が54年ぶりに閉鎖されました。

 

2.米軍はなぜイラクから戦後8年で完全撤退したのか。

 

.2008年11月にアメリカとの間で結んだ、「イラク・アメリカ地位協定」の中に、3年後の2011年末までに米軍が完全撤退すると定められていたからです。 撤退直前になるとアメリカ側から激しい圧力が加えられましたが、イラクの交渉担当者は圧力に屈せず踏ん張りました。
「イラク・アメリカ地位協定」が結ばれた過程と、その条文どおりに実現された3年後の米軍完全撤退を見ると、日本人が常識としている世界観や国際政治の枠組みが、いかにゆがんだものかが分かります。

.「イラクから米軍が完全撤退」というニュースがテレビで流れたのは、2010年8月でした。正確には戦闘部隊だけで、残る5万人の駐留部隊は2011年の年末に撤退しました。

多くの日本人が驚きの目で見ることになりました。この2か月ほど前、沖縄にある米軍基地をたった一つ閉鎖ではなく、県外に移転させようとしただけで鳩山首相が辞任に追い込まれました。
イラクは2003年にアメリカとの戦争で敗北した国です。3月に始まった戦争は戦闘らしい戦闘もなく、5月にはほぼ終結し、米軍を中心とした軍事占領が開始されます。
無残に敗れたイラクが、それから7年で米軍を撤退させられたのか。
日本は戦後70年たつのに米軍基地一つ移転できない。

.「イラク・アメリカ地位協定」は2007年末から2010年10月頃、アメリカ側が出したと思われる協定案をたたき台に交渉が始められましたが、イラク側は何と110カ所もの修正を求めました。

その主要な部分は 
①協定に米軍撤退を明記する 

②2011年を過ぎても米軍がイラクに駐留し続けられと読める曖昧な表現は削除する 

③米兵の免責特権をめぐりイラク側の権限を強化する 

④米軍がイラク国内から周辺国へ越境して攻撃する事を禁止する条項を追加する 

⑤アメリカの艦船等の掲載物の捜査権をイラクに与える

驚きです。日本の政治家たちは5項目のうち一つでもアメリカに要求したら、自分の命が危ないと本気で思っているしょう。

① の「協定に米軍撤退を明記する」と②の「曖昧な表現を削除」これは具体的には
第24条(米軍のイラクからの撤退)
1、 全ての米軍はイラクから2011年12月31日までに撤退する。
2、 全ての米軍戦闘部隊は、イラクの安全保障軍イラクの安全に十分な責任を終えるようになるまでに、イラクの都市部、村落部、ちほうから撤退するものとする。ただし、そのような撤退は2009年6月30日までに完了する米軍はまず2009年6月末までに戦闘部隊が都市部から、次いで2011年末までに全ての軍がイラクから完全撤退しなければならない、と言っているのです。

もともとこの協定が米軍の撤退を前提としたものだからです。
イラク戦争後、米軍がイラクに駐留する根拠となったのは、国連決議(安保理決議1483)でした。この決議に基づいて「特別の権限」をあたえられ、イラクに駐留していたのです。
現代では、昔のように戦争に勝ったからと言って、勝った国が負けた国を侵略して領土を拡げることは出来ません。相手国に占領軍として入っていく場合も、国連安保理決議によって何等かの権限を承認されたという形で、秩序が回復した後は撤退が前提です。国際社会のルールなのです。

.イラクの場合、日本の占領時のGHQ(連合国総司令部)によく似た、CPA(連合国暫定占領当局)という米軍中心の組織が作られました(本部はフセイン時代の大統領宮殿)。

CPAが権限をもつのは、「国際的に承認された代表政府がイラク国民により樹立され、責務が引き継がれるまえで」の期間に限ります。

正式なイラク政府が誕生したら、米軍は撤退するという事です。これは「ポツダム宣言」にあった(日本国民の自由な意思によって責任ある政府が誕生したら占領軍は撤退する・12項目)と趣旨は同じです。

国連決議が切れた後も、アメリカはイラクに米軍を置きたかったはずです。第二次大戦後アメリカは、領土拡大の代わりに各国に基地を置き、そのことで世界をしようとする「基地帝国」だからです。
地位協定の正式名は「米軍のイラク撤退及び米軍がイラクに暫定駐留する間における同軍の活動の組織化に関する米国とイラク共和国とのあいだの協定」

よく日本人は、沖縄に米軍がいるのも、首都圏にいるのも、「戦争に負けたからしかたがない」といいますが、そんなことは全くない。戦争に負け、GDPが日本の50分の1の国で、隣にイランという大きな脅威のある国でも米軍を完全撤退させることは可能です。
*米軍戦闘部隊は実際には何とか居座ろうと1010年8月まで、なし崩し的に駐留し続けました。


.米兵が犯した罪はイラクが裁く。米軍は2011年末までの撤退が決まった後も、なんとか2012年以降も1万人の米軍を駐留させようと、イラクに圧力をかけます。しかし、イラク側は、米軍が駐留の絶対条件としている米兵への裁判権に関して妥協しませんでした。

アメリカ側が重視したのが③の問題です。イラクで米兵、軍属、そして米軍と一体となって治安維持などにあたる民間軍事会社(現在では、アメリカの戦争の相当な部分が民間軍事会社によって担われています。それらの兵士は米兵以外の何者でもありません)の社員を、イラクの裁判権にかからないようにする免責特権でした。

しかし、イラクは「イラクの土地で米兵等が犯した犯罪はイラク人が裁くべきだ」という立場を主張します。
それは、2007年9月バクダット市内でアメリカの民間会社の社員が銃を乱射し、多数の市民が殺傷される事件がありました。
裁判権をめぐる交渉の結果。米兵軍属に関するイラクの裁判権は「公務外」に限るとされ「公務中」か「公務外」であるか決めるのは米軍当局が行う。これは日本の地位協定と同じですが、民間の契約会社に対する裁判権はイラクにあると協定で明記されます。

.④の「イラク周辺への米軍の越境攻撃禁止条項を追加する」ですが、これも注目すべき条項です。

日本人の多くは憲法9条を誇りにしながら、実はこの条項にあるような米軍への規制(他国への攻撃拠点として自国内の米軍基地を利用する事を拒否する)は、過去に一度も行っていないからです。
平和憲法を持つ日本の実態は、「日本の領土、領海、及び領空は、米軍が他国を攻撃するための出撃地点や通過地点として常に利用されてきた」というとになります。 事実米軍基地は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争と常に米軍の出撃基地となってきました。

.第7条では「米軍に許された装備の使用及び貯蔵は、直接的にも間接的にも大量破壊兵器(化学兵器・核兵器・放射能兵器・生物兵器とそれらの廃棄物)と関連しない。アメリカは貯蔵品種類と数量について肝心な情報をイラク政府に提供する」

また、第15条では「安全保障に関する入手可能な情報にもとづき、イラク当局は、米軍に対して、もちこまれつつある物品を入れたいかなるコンテナーも、その内容を確認する目的で、同軍立会いのもと、開けることを要請する権利を有する」

主権国として、たとえ相手が米軍でも、物品の持ち込みはきちんとチェックするという趣旨の条項です。

.第14条(出入国)2項では「イラク当局は、米軍基地か直接的にイラクに入国し、またはイラクから出国する米軍人と軍属の名簿を点検し、確認する権限をもつ」

日本は米軍基地から自国内に出入りするアメリカ人のチェックを最初から放棄しています。日本に誰であろうと入国し放題です。アメリカ人が何人いるのかさえ、日本政府は全く分かっていません。いかに現在の日本の地位協定が国際的にみて異常な状態に在るのか分かります。「現在の日本は、米軍に占領されていた時代のイラクよりひどい状況にある」という事です。

イラク外務省の関係者たちはアメリカと地位協定を結ぶ5か月前、日本に5日間ほど滞在し、地位協定を熱心に研究していったといいます。日本を反面教師にしたのでしょう。後にアメリカとの交渉で成果が見事に役立ちました。
日本も今度はイラクに行って、地位協定と外国軍の撤退について勉強してくるべきでしょう。

3. フィリッピン憲法改正で米軍撤退

 

.1987年に新憲法を公布し、91年上院が基地存続条約の批准を拒否、92年までに米軍基地を完全撤退。

東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟10か国内には、現在、米軍基地はありません。 (インドネシア・シンガポール・タイ・フィリッピン・マレーシア・ブルネイ・ベトナム・ラオス・ミャンマー・カンボジア)

フィリッピンと米国との間には「米比相互防衛条約」という二国間の安全保障条約があります。タイやシンガポールも米軍との合同演習をしていますが、ASEANとしては非同盟の原則を貫き、米軍基地がなくても、地域の安全保障の仕組みは機能しています。

.始まりは1986年の民衆革命。フィリピンからの米軍基地の撤退は、日本の米軍基地問題を考えるにあたって多くの示唆に富んでいます。
東西冷戦の中で生まれた、「親米独裁政権」のマルコス大統領・1965年から86年までの21年間にわたってフィリッピンを支配、厳戒令を発布して政敵を逮捕・投獄するなど、非常に強権的な大統領がいました。

彼の最大のライバルで、米国に亡命したベニグノ・アキノ元上院議員が1983年8月、命がけで帰国します。彼はマニラ空港に到着し、タラップを降り始めた直後、後頭部を銃で撃たれ殺されました。手を下したのはマルコスの腹心だった人物です。

この事件で国民は怒り、マルコス独裁政権を打倒し、殺されたアキノ氏の妻であるコラソン・アキノを大統領にしようという民主化の動きが爆発的に全土に広がりました。

事件から3年後の1986年2月、エサド通りというマニラで1番大きな通りを100万人もの民衆が埋め尽くし、大統領のいるマラカニアン宮殿を包囲して、マルコス政権を打倒しました。マルコスはハワイに亡命しました。

.アキノ政変は独裁政権が民衆の蜂起によって無血で打倒されたということで、東西冷戦下にあった世界では通目を浴びました。3年後には中国での民主化要求での「第2次天安門事件」・東欧ではルーマニアのチャウシェスク政権など独裁政権が相次いで崩壊、東西ドイツを隔てていた壁の崩壊が続きます。

マルコス政権崩壊は、革命の名に値する社会構造の大変化をもたらすことはありませんでしたが、冷戦末期の世界に於いて民衆の蜂起を促す口火となり、やがて冷戦自体を終結させる大きな帆脳となって燃え盛りました。

.新しい憲法の制定作業が始まります。発足した48人の憲法制定委員会が取り組んだ最大の課題は米軍基地を憲法の中でう位置づけるかでした。

アキノ大統領は、86年の政変直後こそ、マルコスを裏で支えた米国に批判的でしたが、次第に米国とは良好な関係を持ちたいと考えるようになります。少なくとも一定期間は基地存続を容認する姿勢になっていました。

憲法制定委員会では「外交、安全保障は議会と大統領にゆだねるべきで、憲法に盛り込む必要はない」という意見も出ましたが基地反対派委員は「基地の存在はフィリッピンの指導者たちを米国の政策やりえきに従属させ、米国による内政干渉を招く」と訴え、今後フィリピンは中立と非同盟を外交の基本政策とするべきだと主張します。

最終的に基地反対派の主張は通りました。憲法に「外国軍基地の原則禁止」を条文に書き込むことを決めました。


.米国との間で結ばれていた米比基地協定が1991年9月17日に期限切れを迎え後は、新条約を結ばなければ外国軍基地をフィリッピン国内に置くことが出来ないとしました。

新条約の承認には「上院議員の3分の2以上の同意」と「議会が要求する場合は国民投票」が必要という非常に厳しい規定を盛り込みました。さらに新憲法は「非核政策を採用、追求する」と規定し、領土内での核兵器の貯蔵または設置を禁止しました。

.米国とフィリッピンとの基地問題をめぐる予備交渉が1990年5月から本格化します。予備交渉はまず、憲法の規定にのっとり、1947年に結ばれた米比基地協定の終了をフィリッピン側が米国側に通告することから始まりました。

クラーク空軍基地

クラーク空軍基地 1989年 手前に見えるのがF-4

 


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返還後、跡地はクラーク経済特別区 (CSEZ)へ

クラーク、スービック基地での汚染被害者は
521人の被害者(うち225人死亡)が確認。 詳細は「こちら


フィリッピン側の団長は「落とし所」として提示したのは、国内に当時あった6カ所の米軍基地・施設のうち、クラーク空軍基地、ジョン・ヘイ保養所(ルソン島・バギオ)など5カ所は返還させ、スービック海軍基地のみの当面の継続使用は認めるという妥協案でした。

しかし、この提案に米国側は烈火の如く怒りました。「これで我々の関係はおしましだ」と怒鳴り、「ワシントンと同盟国は激怒している!」と言って、投資は停止する。フィリッピン人基地労働者は解雇手当ももらえないだろうと脅かしました。

.予備交渉が続く中、1991年6月にフィリッピンは歴史的大災害に襲われます。ルソン島中部のピナトゥボ火山の大噴火でした。クラーク基地のあったアンへレ市、スービック基地のあるオロンガポ市も含め、ルソン島中部は火山灰の砂漠のような光景になりました。

1千万人以上が被災しました。20世紀最大の火山噴火で、成層圏まで達した火山灰によって地球全体の気温を0.5度下げたとされています。
噴火から1カ月もしない7月に訪れたアメリカ代表は、クラーク空軍基地の一方的撤去を伝えました。

同国被災者の救援活動もほとんど行わず、火山灰で使えなくなった基地をあっけなく放棄したのです。ただし、スービック海軍基地の継続使用は要求し続けました。

1991年9月、憲法の規定にのっとり、上院が新基地条約の批准を採決にかけます。 結果は上院議員24人中、賛成11人。反対12人(欠席1)と、過半数にも達しませんでした。この結果1992年11月までに全ての米軍基地はフィリッピンから撤去します。

.フィリッピンが米軍基地を撤去させるにいたった最大の要因は、同国の歴史の中に連綿と受け継がれている「ナショナリズムの系譜」でした。

アメリカが同国を植民地にする過程で起きた米比戦争(1899年~1913年)では、少なくとも60万人、最大で100万人と言われる同国人が米軍により虐殺されています。第二次大戦後も米軍は残り、同国に不利な経済協定も結ばされました。

「同国は本当の独立を勝ち取っていないのではないか」という不満が国民の間にくすぶっていました。 親米的な国民が多い反面、右も左も同国ではナショナリズムを否定しません。

.一度でも植民地支配を受けた国は独立運動を闘う過程で、そうした国民共通の民族意識が育ち、建国の精神も何となく出来上がってきます。そこが日本と違う所でしょう。

少なくとも日本では大戦後、右翼も保守政治家も経済界も、戦後一貫して対米従属です。一方、対米従属を批判するリベラル派(自由主義者)や左派も、日本の伝統に根差した価値観を封建制度などと一緒にして頬りがちでもあります。

ここまで対米従属的な国は日本以外に知りません。世界で唯一の国ではないでしょうか? 太平洋にパラオという小さな島国がありますが、非核憲法を制定して米国に嫌われたため、信託統治領(国際連合の信託を受けた国が、国連総会及び、信託統治理事会による監督により、一定の非独立国地域を統治する制度。国連憲章75条規定。国際連盟における統治制度を発展させ継承)からの独立を米国に中々認めてもらえませんでした。戦い続け1994年10月1日ようやく独立が国連から認められています。
日本はなぜ、ここまで対米従属なのか? かつての戦争で完膚なきまでに米国に敗北したからでしょうか?

.1992年11月14日星条旗が下され、全ての米軍基地はフィリッピン側に返還されました。これによって同国は新しい時代を迎えましたが、基地撤去後も日米安保に似た米比総合防衛条約は、そのまま存続しています。これは米国、フィリッピンのどちらかが侵略を受けたら、互いに防衛し合うという条約です。

基地がなくなった後も、同国と米国との関係は、特に悪化しているとは思いません。その後も合同演習などが行われていますが、憲法上の制約が在る限り、米軍が再び基地を作るのは政治的現実から見て殆ど不可能です。

.クラーク・スービックの両基地跡地は、その後、米軍が残したインフラを活かした「経済特区」となりました。20年を経た現在、両特区とも外資の誘致に成功しており、雇用は数倍増えています。

スービック特区はすでに進出企業で敷地が満杯になり、特区を周辺市町村にまで広げています。クラーク特区は企業誘致だけではなく、国際空港を開港させ、格安航空(LCC)の起点として第二のマニラ空港になろうとしています。

両特区とも年率3パーセント以上の成長を続けています。仕事を失うことを恐れ、基地存続反対した上院議員に「トマトを投げつけたい」と言っていた基地労働者の多くは「あの時は腹が立ったが、今はこの町にとって本当に良かったと思う」と話していました。

人々に感じるのは自信です。家族の将来に前向きな人が多く、汚職や犯罪もマニラに比べると殆ど目立ちません。

.「日米安保ムラ」の住民は、フィリッピンの事例に学ぶことなくこんなことを言っています。「米軍基地を撤去させたフィリッピンは、米軍が居なくなった後、中国に南シナ海の南沙諸島を実効支配されたじゃないか。だからこそ、尖閣諸島をまもるために海兵隊は抑止力として必要なんだ」フィリッピンの選択は過ちだったかのように言うのです。

2012年同国海軍に同乗して南沙諸島海域を訪れまし、同国が実行支配している島にも上陸しました「南沙諸島を実効支配された」と言うと、広大な海域全てを中国にとられたように聞こえますが、全く違います。

フィリッピンとベトナムの間の海域に、いっぱい島があります。地図上は40ほどですが、実際は100以上あります。
この島や岩礁を中国・台湾・フィリッピン・ベトナム・マレーシア・ブルネイの6か国・地域が領有権を主張、入り乱れて実行支配しているのが現状です。

同国海軍によると、現状の実効支配はベトナム20以上、同国9、中国7以上、マレーシア5以上。台湾は南沙諸島最大の太平洋を支配、ブルネイは南西海域のルイサ礁などの領有権を主張していますが、実効支配はしていません。

「安保ムラの」人々が言っているにはほんの小さな岩礁で今までどこも実効支配していませんでした。建物もなく岩礁や浅瀬が在るだけでした。そこに中国が建造物を建てたという事です。米軍基地の撤退とは関係ありません。

.2002年に中国とASEANが合意に至ったのが「南シナ海行動宣言」でした・その内容は「領有権問題の平和的解決を目指す」「実効支配の拡大を自粛する」の2点です。

つまり、いずれかの国・地域が実行支配している島・岩礁を武力で奪うことをしないだけではなく、現在、どの国・地域も支配下にない島でも、新たに支配下に置くことは控えるという取り決めです。この原則は今も守られています。

もちろん小競り合いはあります。しかし、武力衝突には至っていません。日本の尖閣諸島問題と大きく違うのは、領土問題が存在するという事については関係国すべてが認めているのです。
問題の存在を認めなければ、関係国のトップ同士が議題にして話し合う環境は生まれず、解決の道筋を築くことはほとんど不可能です。
領土問題に譲歩しないと明言したうえでも、領土問題の存在さえ認めれば、平和解決の枠組みについてトップ同士が話し合うことは可能になります。
1954年に反共軍事同盟として設立された東南アジア条約機構(SEATO)を母体としているASEANは、長い歴史をかけて域内に加盟国を拡げ、他国の主権と国際法を尊重しながら「平和の知恵」を積み重ねてきました。
ASEANは日本・中国・韓国・を加え「ASEAN+3」という枠組みが1997年から始まり、すでに15年以上、首脳会談や外相会議を行ってきています。
また、1994年に創設したASEAN地域フォーラム(ARF)は、現在、北朝鮮を含む東アジア全域の国に米国、欧州連合(EU)も加わる唯一の安全保障をめぐる定期的場となっています。
ASEANの長年の安全保障外交は、対米追従に終始してきた日本外交にはない独立性、さらに独創性と評価できる優れた面があります。日本外交が学ぶべき点は多々あると思います。

 


参考 

イラク・アメリカ地位協定 Wikipedia EN

イラク・アメリカ地位協定の履歴が有ります。
大野もとひろ事務所(参議院議員 大野もとひろ様) 
ホーム->政策・活動-DOWNLOAD->「米イラク地位協定について

フィリピン・クラーク空軍基地跡地の環境汚染被害 - 立命館大学

「フィリピン・クラーク空軍基地跡地の環境汚染被害」では、最後に下記文章で閉められている

軍事活動にはさまざまな化学物質が管理されている。今後、日本や韓国等、米軍基地が存在する国で基地が返還されたとしても、包括的な環境調査・健康被害調査なしに、安易に開発を進めるべきではない。米軍基地が最初に大規模に返還されたフィリピンのケースは、貴重な教訓として活かされるべきである。
連帯ユニオン議員ネット