ものがたり
劇団はぐるま座 ホームページより転載
1999 年、下関で始まった「原爆と峠三吉の詩」原爆展パネル展は、全国数千ヵ所でおこなわれ、衝撃的な反響を呼び起こした。 このパネルは、広島の原爆詩人・峠 三吉の詩をベースに、原子雲の下にいた人人の側から、時間を追って、どんな体験をしたのか、どんな思いを抱いていたのか、なぜこんな目にあわなければなら なかったのかを写真や絵、峠が編纂した小中高生の原爆詩集などで構成し、下関原爆展事務局によって作成された。
舞台は二〇〇一年秋、広島で初めて開催される旧日本銀行での「原爆と峠三吉の詩」広島原爆展の準備のためにキャラバン隊スタッフたちがチラシを持って市内を一軒一軒まわったところから始まる。
「どうだった?」「手ごわいな。あのう、原爆について聞きたいのですが、といったとたん、お前たちは禁か協かと問いつめられた」「広島で原爆といって騒 ぐ連中は原爆をメシの種にしている奴らだ」など、広島市民のなかには既存の運動への激しい嫌悪感が渦巻いていた。だがスタッフたちは「断固として峠三吉の 時期の原点にかえった運動をつくるんだ。加害責任の反省などという勢力とは違い、アメリカの犯罪にはっきりした態度をとること、市民の意見を徹底的に学ぶ 姿勢でいくこと」という立場で一致して入っていった。すると市民からはまるで古い友人があらわれたかのような歓迎を受けた。
全市民の協力のもとでおこなわれた旧日銀広島支店原爆展は、「広島の者が本音を語り始めたら日本は変わる」「広島の面目を一新させよう」と意気込み高く開幕。市民たちからは、「初めて語れる場所に出会った」とこれまで胸に秘めてきた凄惨な被爆体験が激しく語られた。
以来一〇年間の原爆展連動は、瞬く間に全国に広がり、これまで語られなかった各地の空襲体験、県民の四人に一人と一〇万人もの日本兵が犠牲となった沖縄 戦の体験、「祈り」が強いられてきた長崎市民の本当の声、また、特攻隊や中国大陸、南方などの戦地体験、そして戦後の苦労などが堰を切ったようにほとばし り、あの戦争はなんであったのか、敗戦後の日本はどんな社会なのか、厚く施された欺まんのベールを引きはがし、広島、長崎、沖縄、戦地の真実を浮き彫りに していった。
それは、再び戦争に向かうことを押しとどめ、平和で豊かな日本を建設する確かな力が、日本民族のなかにあることを確信させるものだった。このドラマは、その原爆展運動の記録である。