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『日朝友好なにわの翼訪朝団』は、5月28日~6月2日まで朝鮮民主主義人民共和国(以下、共和国)を訪問した。  有元幹明さん(日朝国交正常化の早期実現を求める市民連帯・大阪共同代表)を団長に9人が参加した。




日朝友好なにわの翼訪朝団に参加して
                   連帯ユニオン関生支部 執行委員

1.はじめに
朝鮮半島には二つの国が存在する。それは何故なのか?映像や書物等様々の情報で少しは学んできた。

一方の国、韓国を訪れる日本人は「冬のソナタ」放送以後急激に増加。この所の円高で飛行機の増便も相次ぎ、空前のブームとなった。テレビの旅行番組ではグルメやエステ、ショッピング等様々な情報があふれて、一層の親近感を持った人々も多い。
しかし、もう一つの国「朝鮮民主主義人民共和国」を知ってる人々はどれ位いるだろうか?日本人が持つ「共和国」のイメージは独裁国家・拉致の国・貧困・テポドン・自由のない国等、良いイメージは一つもない。又、「共和国」に行ってみたいと思っても、「JTB」やその辺の旅行会社ではツアーを募集していない。「共和国の歩き方」「るるぶ北朝鮮」などの旅行雑誌も売っていない。一般の人達は情報が入らない。
そんな「共和国」に行ってみたいと以前から思っていた。ただ、家族や友人に「共和国」に行くと告げると、予想どうり「拉致される」「強制収容所に送られる」「大丈夫なん」「何しに行くの」などの言葉が返ってくる。ますます自分の目で確かめたくなる。出発の日が近づくにつれ益々その声は大きくなる。そんな声の中、中国「北京」経由で「共和国」へ旅だった。

2.目的
①日本国内でマスコミ等が提供する共和国の情報が、何処まで正確に発信されているのか。
②平壌や地方の一般の人達がどの様な生活を送っているのか。
③気候や食生活・文化の体験。
④チュチェ思想や教育のあり方。
以上を自分自身の目や肌で実際に確かめて見たくて参加しました。

3.日程経過
・5月27日、9時半関空を出発

北京の「朝鮮民主主義人民共和国」大使館で、「共和国」入国のためのビザを取得するため、2時間半かけて中国入国。日本とは国交が無いためにこのような迂回路とらなくてはならない。関空から直線で「共和国」に行けば2時間位で行けるのに。北京で一泊する事になる。ここでも近くて遠い国の存在がある。 北京空港は巨大だ。関空の何倍あるのだろうか?端から端はとても歩いて行けない。
 
経済発展目覚ましい国。しかし、町全体がどんよりとスモッグにおおわれて空が見えない。道路も交通渋滞で大変だ。
 
 
北京は中国では三番目の都市、人口で約1800万人。二番目は上海約1900万人。一番目は重慶で約3200万人。中国のスケールの大きさに圧巻です。町のメイン通りの空き地は何処も工事中で新しいビルが造られる。

古い町並みは取り壊され近代建築へと変化する。でも、少し中に入ると古い町並みが残りゆったりした時間が流れている。今日のホテルはそんな落ち着いた町の中にあるホテルです。

 

・数名でタクシーを飛ばして天安門広場
まだ8時だと言うのに広場は多くの観光客でごった返している。道路は規制され広場に入場するゲートも設けられ持ち物検査の場もある。そこを無事に通過し、広場に出るとその大きさに圧倒させられる。これだけ広ければ100万人集会も出来るだろう。
広場の正面には毛沢東の肖像画がデンと飾られている。その後方が紫禁城。時間の関係で立ち寄れなかったが、見て回るには1日は十分必要。

広場の中には毛沢東の遺体を安置している建物があるが、その周りを見物客がぐるっと取り囲んでいる。2キロぐらいあるだろうか?あまりに多いので見学は立ち止まれない。

「大躍進政策」や「文化大革命」で多くの国民が犠牲になっているが、毛沢東は今でも「中国建国の父」なのだと感じる光景です。

・北京出発・平壌到着
北京を後にして「高麗航空」で平壌へと出発。パスポートには中国出国のスタンプはあるが「共和国」入国のスタンプは無い。国交が無いので押してもらえない。だから公式には「共和国」に入国した証拠は存在しない。また、在日朝鮮人の人達はパスポートが無く「再入国許可書」で海外に出る。そこには渡航自粛国として「北朝鮮」と書かれていた。
日本で生まれ育ち税金も納めているのに、朝鮮大使館が無いためパスポートも発効されず差別されている。


飛行機は2時間ほどで無事に平壌国際空港に到着。
空港周辺はのどかな田畑が広がり田植えの時期か多くの人達が農作業をしている。日本との違いは農耕機械が見えない。牛と人間での田植えだ。
降りたって一番に感じたのは空が青い。空気が美味しい。北京のスモッグを数時間前まで体験しているのでその違いがよく分かる。空港の滑走路も地方空港のようにゆったりしている。タラップを降りた正面には写真でよく見る「金日成主席」の肖像画がデンと構えている。空港周辺の写真を気にせず撮るが、別に何も注意されない。写真撮影を規制されるのかと思っていた。
ターミナルへはバスに乗車。入国検査前に携帯電話は今回お世話になるガイド、朝鮮対外文化連絡協会指導員の李さんと金さんに預ける。
入国検査官は軍服を着た眼鏡鋭い人で、少し緊張したが何も聞かれずに通ることができ、荷物の検査もあっさり通過。無事入国する事が出来た。
ガイド役の金さん李さんとも日本語が堪能で穏やかに対応してくれる。平壌市内へは、今回旅の足となるマイクロバスで移動。空港を出ると真っ直ぐで広い道が田畑の中を抜けていく。すれ違う車の数も少なく、何となくゆったりしていて、懐かしさを感じてしまう。70年代前後の日本の農村風景の様である。到着後一時間で当初考えていたイメージが早くも壊れていく。
 
今回宿泊するのは、平壌駅近くの「高麗ホテル」最高級5つ星で45階てツイン式の高層ホテル。04年に訪朝した小泉首相もここに立ち寄っている。ホテル内にはレストランや土産店。プール等が完備し、部屋のテレビではNHKの衛星放送やCNN・BBCも見れる。部屋も広く十分である。
「共和国」での通貨は、国民は「朝鮮人民ウォン」で外国人は使用できない。「ドル・ユーロ・中国元・円」はどれでも使用できるが、拉致問題以降様々な規制をかけている現在、「共和国」を訪れる日本人や円の流通が少なく、ホテルでの1万円両替などは千円札が無く交換してもらえなかった。ドルやユーロ・元との交換はOK。
ホテル内も日本人は我々以外一人も見ないが、中国人・欧米人・アラブ系・インド系等の観光客やビジネスマンが宿泊している。日本が拉致問題で経済的圧力を掛けているつもりだろうがそれによっては何も生まれないし、関係は改善されない。対話による門戸を開くべきである。
さて、ホテルの周辺(Googleマップ)は高層の住宅が建ち並び、道路も綺麗に整備清掃されている。車の数はまばらで北京とは大違い。日が暮れてからも殆どネオンや街灯等は無いが、多くの人達が行き来している。なれれば何の不便も感じ無いのだろう。日本では照明がこうこうとともっているが、不必要な電気を使いすぎるのでは無いだろうか?そのために原発を狭い国土の中に54基も作り、今回の事故である。私達の生活習慣を見直す時期に来ているのかもしれない。
 

夕食はホテル内の焼き肉店で牛肉・豚肉・アヒル肉を注文。アヒルの肉は初めであったがタレに漬けてあり非常に美味しかった。キムチも薄味でまろやか癖になりそう。
 
ビールも「共和国」の生ビールを飲んだが、こくがあって旨い。締めにはレーメンを食べおなかいっぱい。食に多少の不安を持っていたが何の心配も必要なさそうだ。


・「万景台の生家」と「チュチェ思想塔」
万景台は平壌市内から20分程の所にある。大同江川の辺にあり、景色を一望出来る高台になっている。
 
その中に、「金日成主席」の生家がある。 生家周辺は綺麗に整備され整然としている。入り口には、チョゴリを着たガイドの女性が日本語で案内してくれる。生家はこじんまりとした藁葺き屋根の民家で子供時代は貧困であったと説明してくれた。この日も私達とは別に、何組かの欧米人観光客と中学生の団体客があった。
 
展望台の高台には生家から歩いて10分位で到着。大同江川を挟んだ対岸が遠くまで見渡せる。
 
ここで先ほどの中学生達と一緒になり写真を撮ろうとジェスチャーで示すと、最初は照れていたが気軽に応じてくれた。また、近くの記念塔の所でも労働者の団体が来ていて、一緒の記念撮影に気軽に応じてくれた。


 
チュチェ思想塔」は日本で報道される共和国ニュース画面で、女性アナウンサーの左側に高くそびえている塔である。高さは170メートルもある。チュチェ思想は「金日成主席」がマルクス・レーニン主義をもとに作り上げた北朝鮮独自の社会主義思想で「革命と建設の主人公は人民大衆であり、革命と建設を押し進める力も人民大衆である」と説く。この塔は「チュチェ思想創始者の金成日主席の革命業績を広く伝える」目的で1982年に除幕式が行われた。
 
 
 

塔の中はエレベターで最上部の展望台へ昇れる。展望台は平壌市内を含め360度展望できる。

黄色い棒のように見えるのがバス
その他の写真 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10

胸より少し高いぐらいの壁が周りにあるだけで、下を覘くことも出来るが、恐怖を感じる。高所恐怖症の人にはお勧め出来ない。展望台から眺める景色はすばらしく町が一望できるし、遠くの山々も美しかった。また、写真撮影が自由だったのも意外だった。
 
塔の前にも高くそびえる銅像があり、鎌を持った農民。ハンマーを持った労働者。ペンを持った学者が一斉に腕をつきだしている。三者が協力すれば労働者の楽園が出来るとしている。
市内には多くの所に記念塔や碑が建っているが、その大きさが半端では無い。圧巻させられる。そのような施設や町の道路脇などの清掃は、地域の住民が率先して管理し清掃しているので殆どゴミが落ちていない。

 
・大同江果樹総合農場

市内から1時間位離れた所にあるこの農場は、リンゴ農場で見渡す限り広大に広がる果樹園。まだ出来て数年しか立っていないが、毎年収穫料が増加しているとのことで、軍が主体となり開墾し、農民が集団で管理している。
元々北の地域は米の栽培に適していない冷帯冬季小雨気候地域で、冷害に弱い米は時々の天候に収穫が左右され、主食の米が配給制の共和国では冷害により国民が食料不足に陥いりやすい。
そのような土地に適した農作物がリンゴであると考え、「金成日総書記」が自ら訪れ指示をされたと、ガイドで20歳前後の可愛らしい女性が説明していた。
 
市内に戻り、祖国解放戦争勝利記念塔を見学。
ここは日帝との解放戦争で人民軍がいかに勇敢に闘い勝利したのかを10数隊のモニュメントで展示しているが、ここでもその大きさに圧倒される。
市内に戻ると空中を雪の様に白い物が風に揺られフワフワと一面に漂っている。これは平壌に多く植えられている「柳京」と呼ばれている柳で、その花であるとの事だった。日本の柳とは種類が違うのだろう、日本では見たことが無い。市内の川や池は桜の花びらが散った後のように真っ白くなっている。
 
そして、この柳の名を取った世界最大のホテルで、二等辺三角形が三つ集まった形をした斬新なデザインの「柳京ホテル」がすぐ近くにある。
来年、「金成日主席」生誕100年に合わせて開業予定であるが、高さ300メートル、105階建て、客室3000室を誇る。現在、外装工事が終わり突貫で内装をしているそうである。つい数年前まで、このホテルを撮影する事は禁じられていたらしいが、今は何も言われない。完成したらどんなホテルになるのか見たいものです。
 
 

・板門店 
朝鮮半島分断の地、板門店。平壌から約200キロ。ソウルから70キロ地点(Googleマップ)。日本で報道される板門店は、共和国側の直立不動の姿勢で睨みを利かせている軍人が管理している緊張の場所で、厳重な警戒態勢が引かれている地点と言うイメージがある。
韓国側からここを訪れる場合審査が非常に厳しく、10歳未満の子供は参加できないし、ジーパン、Tシャツ、タンクトップ、半ズボン、サンダル、ミニスカート、作業服、軍服スタイル、男子の長髪も禁止と本に書いてあった。また、写真も決められた場所でしか撮影出来ない。「見学中、負傷ないし死亡する事態が起きても一切保障は請求しない」という誓約書を書かされる事もあるらしいとある。
一方、共和国からくる場合、服装は自由だし、誓約書を書かされることもなく。写真撮影も殆ど自由だった。
 
平壌から200キロの道のりは、ほぼ直線の幅広の道路が続いている。道の両側は田畑が広がってるが、赤茶色の土が多く豊かな土地とは見えにくいが、少しの土地でも収穫が出来るように工夫し一生懸命に働いている姿が目に映った。
道中に一カ所だけ休憩所が有り、そこでトイレと簡単なドリンクや土産を販売している。車の数も極端に少なく、地域の人達が乗るバスや工事車両などがまばらに走る位。但し、両脇に車が少ないためか歩道が設けてないので自転車や歩行者、それに道路整備の人や掃除をする地域の人達などがいるため、脇見運転は出来ない。また、途中に検問所が3つ有り、自動小銃を持った兵士が管理ししている。ここでの写真撮影は禁止。
 
3時間近く掛かって板門店に到着したが、まわりは田んぼで田植えの最中。もっと緊張みなぎる場所で警戒も厳重かと思っていたのに見た限りでは緊張感無し。
入り口では、朝鮮戦争が始まった1950年6月25日から停戦協定が結ばれた1953年7月27日までの3年間で、共和国側の約250万人。韓国側約150万人。中国人民軍兵士100万人。米軍5万人の死者を出し、一千万人を超える離散家族を出す悲惨な、民族を分断する戦争になったと説明があった。
この停戦協定で、軍事境界線から南北にそれぞれ2キロ、計4キロの非武装地帯が設けることが決められた。朝鮮半島を分断する250キロに及ぶ境界線上に位置するのが板門店で、雄一南北が話し合うことが出来、結びつける場所でもある。
 
協定調印会場から少し行くと、本や映像で見た事のある場所が現れた。真っ正面に韓国側の自由の家と、軍事境界線(幅50センチ)をまたぐ形で立つ停戦会場。そこには直立不動の共和国側兵士が7~8名配置されている。しかし、韓国側の兵士や観光客は見あたらない。
少し緊張しながら協定調印会場の中にはいる。建物の真ん中に協会があり向こう側は韓国側で建物の中では行き来できる。中には共和国側の兵士が2名監視しているが写真撮影など全くの自由だった。
建物に戻り2階のベランダから韓国側を見渡すが人影は全くない。韓国側の「自由の家」のベランダ付近には10台以上のテレビカメラがこちら側を監視している。共和国側は2台あるだけだった。
60年近く前に停戦協定を結び、民族を分断する軍事境界線。この境界線が無くなればどれだけ流通が便利になり、離散した人達が行き来出来るのだろうと考えさせられる。段階的な統合へ向けて進めるべきだと痛感した。その実現のためにも日本との国交正常化と過去の歴史対する問題を解決していく必要がある。

・開城市と開城民族旅館
板門店と隣接する開城市は、人口30万人で歴史と文化のある古都である。高麗王朝時代の500年間都のあった都市であり、平壌に次ぐ共和国第二の都市。また、朝鮮戦争での被害を免れた古い町並みが未だに残っている落ち着いた町だ。

町の中にはいると開城南大門が有り、そこがロータリーになっている。そこから少し行くと開城民族旅館がある。ここで昼食をとる。
 
開城民族旅館とは、李朝時代(1392年~1910年)の朝鮮民家をホテル用に改造したもので、1989年にオープンし、外国人専用で客室は100位。民家に泊まっていると感覚である。

旅館街入り口には門が有り、バスが着くと門を開けてくれた。真ん中に小川が流れ、その両側に古い民家が川に沿うように建っている。静けさの中、古い建物も見ていると時間を忘れてしまう。我々以外に観光客は誰もいない。
川に沿って突き当たりまで行くと民家の門があり中に入る。日本の古い農家の様で縁側があり、中には三つの部屋がある。その一つの部屋で食事をとる。朝鮮独特の真鍮の器10個近くに小分けされた中に色々な食材が入れられどれも美味しかった。
 
お腹も一杯になり縁側からの心地よい風に当たっていると、大の字になって昼寝がしたくなってくる。気持ちがいい~。
予約すればここで宿泊出来るが、便利さを求めて泊まりたい人はおすすめ出来ない。町のホテルのように近代的な設備は無い。

・人民大学習堂
チュチェ思想塔の対岸にある金成日広場に隣接する人民大学習堂は、大理石張りの威厳のある建物です。重圧なドアを開けると「金成日主席」の巨大な大理石像が椅子に座った状態で真正面にある。
ここは学業を終え就労したが、再び学問を学び直したいと言う人達が、国家から賃金保障を受けながら勉学したり、学生達が書物や音楽等様々なジャンルを学ぶ為にある。日本の歌手のCD等も貸し出されていた。
ここで学んでいる人達は、まじめに静かに一生懸命である。共和国はホテルなど除いて公共施設なども節電の為か薄暗いし、廊下などは何個かに一つ位しか電気がついていない。
勉強するところでも、よくこれだけ薄暗い所で学べるなと思う位の所で勉強している。普段こうこうと明かりを付け、それになれた目には大変だ。
インターネット画面上の文面を、ビッシリと細かな字でノートに書き写している。我々みたいに余り必要も無い情報を安易にプリントし、膨大な紙やインクを無駄にしているのとは大きな違いである。紙も自分たちが普段何気なく使っている白いノートなどでは無く、再生紙のような1枚1枚の紙に間違うことなく丁寧に書き写していた。書くことによって記憶する事が進むはずだ。
講堂や廊下では何かの発表会があるみたいで、集まって楽器の演奏や、女性達が歌を歌っていた。我々と目が合うと少し恥ずかしそうに照れていた。
共和国では学校は全て無料で国家が保障してくれる。学びたいと意欲と能力があれば大学までも無料である。資本主義国は物は豊富にあるが、能力が有り学びたい意欲があるのに、お金が無いためにそれが出来ない人達が数多くいる。日本の東京大学に学ぶ学生の親の平均所得は850万円を超えているそうである。国立大学でこれである。サラリーマンの平均所得が450万円位の日本でどれだけの人が犠牲になっているのか、考えさせられる。 

人民大学習堂のテラスに出ると、正面に金日成広場が一望できる。中国の天安門広場ほどでは無いが、ここもテレビで見る場所だ。共和国の軍事パレード等が行われる場所である。

 
・原爆被害者達との面談
高麗ホテル内で二人の女性被爆者と面談した。一人は広島で被爆し、もう一人は長崎で被爆された。
日本には戦前多くの朝鮮人の人達が、様々な方法で連行された。騙したり、あるいは徴用と言う形で連れてこられた。男性は炭坑等重労働の現場へ、女性は工場労働者にされたり、あるいは従軍慰安婦にさせられたりと人権を無視した行為が数多く行われてきた。
そんな中、広島・長崎の原爆投下によって被爆後、祖国に帰り、未だに何の保障もされず生き抜いてきた人達の証言である。
同じように被爆した日本人はそれなりの治療と、わずかではあるが保障を受けられるが彼女達には何もない。
一人の女性は自分の娘が被爆の影響で、若くしてガンで苦しみながら死んでいった。その娘が病床で、何故自分がこんな病気になり苦しまなければならないのかと言われた時が一番つらかったと言っておられた。自身も様々な後遺症に苦しみ現在も治療中である。共和国は医療費が全て無料なので生活は出来るが、日本政府の対応には納得いかない。自分たちは高齢であるが残された時間の中で、保障や謝罪も含めた問題を勝ち取って行きたいと表明された。
今回、福島原発事故で放射能が問題になっている、すぐに影響が出ない人達も将来的にどの様な形で影響が出るか分からない。
何の保障も受けられない彼女たちの様な人達が数多くおられる、我々が国内でこの問題を真剣に取り組み補償を勝ち取ることが急務であると痛感した。

・ルンラ小学校
平壌市内の、周りを団地に囲まれた3階建ての普通の小学校である。我々が訪問して時は通常の授業は終わり、課外学習を見学した。
子供達は授業が終わると、様々な課外項目の中から自分の好きなクラブを選び、それに参加する事になっているらしい。

  
  
ある教室では、子供達は折り紙などを一生懸命作っていた。ハサミ等を使い工夫しながら綺麗に仕上げていた。また、図画の教室では思い思いの絵を熱心に書いていた。ある子供の絵は米軍兵士をこん棒のような物で殴り付けている場面を表現していた。
戦前、日本の子供達が「鬼畜米英」と闘う場面を絵に描いていたとの似ている。アメリカとの関係で言えば「停戦状態」であって、戦争はこの国ではまだ終わっていないだと、考えさせられる絵だった。
今回、私達が訪問すると言うことで、子供達が歓迎の意味を込めて歌と踊りで迎えてくれた。ほんとにビックリするほど上手だった。小さな子供達が、体と表情一杯の仕草で歌や踊りを演技。また、オルガンやアコーデオン等の楽器も上手だった。表情が豊かで、日々どれ程練習しているのだろうかと思わずにはいられなかった。
私達もお返しに朝鮮語と日本語で「古里」を歌ったが、ろくに練習もしていないので上手に歌えるはずもなく、子供達の視線は「下手だなー」と言う目線を投げかけていた。あまりにも下手なので、途中から応援に入ってくれて場を盛り上げてくれた。
子供達と一緒に歌ったり踊ったりと短い時間だったが、楽しい一時を過ごせた。ただ、小学校でも電力事情が良くないらしく、演奏の途中で停電してしまいシンセサイザーが使えなくなってしまった。でも、子供達はなれてるらしく、あまり気にもせず薄暗くなった教室でも元気に演奏や踊りを続けてくれた。
日本では「学級崩壊・いじめ」等の問題が出ているが、共和国ではそのような事は皆無らしい。とくに「いじめ」などがもし起きれば、先生や親などが徹底的に話し合いを行い、問題解決に努めると言われた。
日本の子供達は放課後と言えば「塾」や「室内でゲーム」。外で遊ぶときは一人で遊ぶな、GPS付きの携帯電話を持たされ、何をするにも規制される。平壌の子供達の表情や外で遊ぶ子供達を見ていると、どちらがいいのか考えさせられる。そんな事を思いながら小学校を後にした。
 
・凱旋青年公園(遊園地)
凱旋青年公園は平壌市内にある凱旋門の近くにある。
凱旋門と聞くとパリを連想するが、平壌のそれはパリのより10メートル程高い。高さ60メートル、間口52,5メートルと直線道路をまたぐ様に建てられている。1982年「金成日主席」生誕70年周年に序幕式が行われている。
通常、遊園地は午前から夕方まで開園していると思うのが普通だが、平壌では労働者が仕事を終わってから遊べるように、夕方6時から12時まで開園するそうです。
行った当日は小雨もようで、可動している遊具は少なかったが多くの若者達が遊びに来ていた。遊園地の周りには出店なども出ていて、日本と変わらない若者達の遊び場になっている。 
メンバーの中から数名の雄志が回転しながら降下する遊具に乗っていたが、アルコールが入った後なのでフラフラになっている人もいて、それを見て乗らないで良かったと変な納得をしていた。

・大同江タイル工場
平壌から車で1時間位の大同江川下流にあるタイル工場を見学。この工場はコンピューター管理された最新鋭の工場で、タイルや人工大理石等の建設資材を作ってる。
 
工場の見学は、小さな電気自動車を若井女性が運転して案内してくれる。工場内は良く整備され労働環境も良さそうである。労働者も最近出来た工場のため若者が多く働いていた。出来上がったタイルや、人口大理石を展示してる所も見学したが、デザインも斬新で製品の品質も非常に良い。値段も安いらしく日本を除いた各国のバイヤーが交渉に来ていると言っていた。責任者は早く日本と貿易出来るようになれば、この商品を送りたいと言っていた。
工場内に日本で言う宣伝カーが止まり、赤い腕章を巻いた数名の人達が大きな音量で音楽を流し、マイクで演説をしていた。まさか抗議宣伝かなと一瞬思ったりもしたが、聞いてみると労働者に対する激励と、生産性向上の為の放送等であるそうです。
平壌市内でもよくこの宣伝カーを見かける。平壌駅近くでは、朝6時になるとホテルの部屋にいても聞こえる位の音量で、スピーカーから音楽が流れてくる。夜12時にも平壌駅方から聞こえてくる。夜はもう遊ぶのはやめて家に早く帰れと言っているのかな?

・朝鮮映画撮影所・オープンセット
共和国の映画の殆どをここで制作している。広大な敷地には戦前、日本が植民地支配していた頃の町並みや、古い時代の朝鮮の建物等が地域事に分けられている。
オープンセットと言えば張りぼての前は綺麗に作られ、後ろに回ればベニヤ板という事が多いが、ここは本当の家のように造られ住めそうな感じです。
 
日本街などは古い看板や町並みが綺麗に再現され、今にも誰かが中から出てきそうな雰囲気で、タイムスリップしたような感覚に陥ります。軍服を着た人達がいたので監視の為に常駐しているのか思ったが、俳優の人達で何かの撮影の準備中とのことだった。
撮影所の一角では家族の人達が集まり、シートを広げて宴会らしきものをしていて、小さな女の子が踊っていた。カメラを向けると親族の人達が気さくに話しかけてきて、和気あいあいの雰囲気になっていた。
 
4.目的に対する感想
初めての訪朝ではあったが自分の目で見、肌で体験して良かったとつくづく思う。
マスコミの流す「共和国」の情報がいかに偏ったものなのかが良く理解できた。五日間で見た所はほんの一部分だったかもしれないが、日本で流されている情報が正しく伝えているとは思えない。
平壌市内の主要な交通手段であるバスや路面電車は何十年も前の物が多く使用され、快適とは言えないかもしれない。電気も節電され、必要最低限の使用しかされていない。 店にも豊富に商品があるわけではない。でも、子供達は生き生きと活発に生活し学習している。大人達も通勤風景を見ていると、男は人民服を着ている人が多いが効率的だ。女性はそれぞれにお洒落し綺麗にしている。
町の中もそれぞれの地域で、積極的な活動が行われ、花の管理や掃除などが集団で行われていた。日曜日に行われる日本での地域活動と同じ様な雰囲気だ。
物質的には豊かになった日本だが失った物も多いように思う。個別に人々と会って話してはいないが、人にとって幸せとは何かと考えさせられる。
食事についても、水の問題など多少の心配事があったが、毎日美味しく食べることが出来た。特に現地の「生ビール」や「アヒル肉」「キムチ」「レーメン」などの味が今でも忘れられない。
レストランなどでの従業員の接客態度も非常にすばらしく、何時も笑顔で対応してくれた。社会主義国では、サービスの質が悪い様に思われているが「共和国」は違った。
子供達も学校教育とは別に社会活動やボランティア活動等に積極的に参加し、明るい表情で活動していた。
2012年は「金日成主席」生誕100周年にあたる年で、「共和国」では様々な催し物が行われ多くの人達が訪れる。来年からの「強盛大国開国」を目指す事が方針として掲げられている。機会があればそれを見てみたいと思う。今回の訪朝が自身の意識の向上に役立った事は間違いない。
                                      以上
 
  

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