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11月4日~8日、連帯ユニオン近畿地方本部と中央本部及び東海支部と生コン支部は、共闘する労組2団体と市民団体で訪韓団を結成し、韓国労働運動の歴史と実態を調査すると共に現地労働者と友好を深めるべく韓国を訪問しました。訪韓中には建設労組や生コン会社、モラン公園などを訪問したほか韓国民主労総全国労働者大会に参加してデモ行進にも加わりました。

【レポート/連帯ユニオン近畿地本・K執行委員】

11月4日 15:00過ぎ 韓国 仁川(インチョン)空港に到着
ホテルにチェックインした後、韓国ソウル市内の建設労組の方々と対面し、早速交流会を開催していただきました。
 
しかし、訪韓団が韓国に赴く2日前に韓国建設労組のある東洋レミコン分会で分会長と会社の未組織労働者との間でもめ事が起こり、死亡者がでるという事件があったこともあり、交流会は粛々と行われました。


 
この事件はインチョンで6か所ある分会をまとめる存在でもあった東洋レミコンの分会長がハンマーで頭を殴られたうえ、4か所も刃物で刺されて死亡するという悲惨な事件で、韓国労働運動の壮絶さを印象するものとなり、訪韓団一同に緊張が走りました。労組は事件に対する問題解決が見られない内は葬儀を行わない予定としていましたが、訪韓団到着日の11月4日に事態が急転し、当日の団体交渉で会社側が今回の件に関しては遺族に対する補償と謝罪をすることに合意しました。建設労組としては、亡くなった分会長の遺志を継いで闘うとの決意が交流会で表明されました。

◆韓国で一番メジャーな生コン会社である東洋レミコンでは組合員と非組合員は半々。会社の別地域の工場では今年55人を解雇しているそうです。建設労組は解雇撤回闘争を行い、組合勝利を勝ち取っていますが労使関係は最悪と言わざるを得ません。
 
会社は組合員の排除、弾圧、分裂を目論んで様々な攻撃を加えているのだと聞きます。社内では非組合員と組合員との暴力事件が過去に多々あったようですが、会社は黙認。それどころか会社は日々、非組合員を煽って組合員への暴力行為を奨励しているような感じだったとのことです。
今回もそれと同様で、ただ会社内で歩いていてぶつかったということが事件の発端となり、非組合員は分会長の頭部をハンマーで殴打、騒ぎを聞きつけた非組合員がさらに加勢し、刃物を使ったということで、分会長はすぐに病院に運ばれましたが間もなく息を引き取りました。会社も警察も「個人的な恨みによる事件」と主張しますが、労組としては資本の非組合員を使った弾圧であるとみています。
 
日本でも建設業界が落ち込みを見せていますが、それは韓国でも同じことであり、資本はさらに労働条件を抑え込むのに必死なのだということです。

 

11月5日 韓国建設労組事務所を訪問して学習会
この日はまず韓国建設労組を訪問しました。
韓国建設労組は昨年末から4度にわたり、政府から「労組を解散せよ」という文書を送られているのです。しかし、労組というものは政府からそのようなことを言われる筋合いの無い存在のはずです。現在の「イ・ミョンバク政権にとって労組の存在はかなり重荷になっている証拠である」と建設労組は胸を張ります。
 
さらに『韓国哨戒艦沈没事件』について、韓国国民の世論調査によると国民の70%は米韓両政府の発表を「信じていない」との結果が出ています。にもかかわらず、日本ではマスコミが「朝鮮民主主義人民共和国の仕業だ」と断定した口調で報道していることに韓国国民が驚きを持っていると言います。しかし、あの発表で一番得をしたのは結局アメリカで、あの発表の後沖縄米軍基地の県外移設を公約に掲げた鳩山首相は、結局アメリカの圧力に屈し、退陣せざるを得なくなりました。

(映像)2005年:ウルサン地区(韓国南部の重工業都市。民主労組が強い地域)の建設プラントの争議

日韓の政治問題となっている竹島(独島)や日本海の問題、日露の政治問題となっている北方領土問題、日中で政治問題となっている尖閣諸島問題で、日本ではナショナリズムがさかんに煽られていますが、領土問題は戦争へと発展しやすいものです。
建設労組の人は「労働者として見れば、どの国の漁師でも自由に漁をすることができれば何の問題もなく、資源の問題も色々あるだろうが結局、非武装地域とすれば揉めることはないのではないか?」という話をしてくださいました。
 
そして学習会として韓国のある労働争議をまとめた一本の映像が上映されました。

 

 


◆韓国独立以来、建設労働者は30年以上国の経済を支えてきた。その労働者の労働条件というのは、食事や休憩をする部屋すら与えられず、労災すら受けられないという酷いものであった。
労働者は、「土日は休みたい」という単純なことを願い、手配師と呼ばれる労働者を派遣する親方的な人たちの中間搾取(ピンはね)の横行により労働基準法以下の賃金しかもらえず、苦しい生活を余儀なくされていた。そして労働者は工事が終わると退職金も貰えないまま、ただ解雇されていた。
 
政府は2003年「労働組合を認めない」という方針を打ち出し、労働組合や労働運動の活動家を次々と拘束、逮捕して拷問にかけるなどの弾圧を強化していった。ノ・ムヒョン大統領が誕生し「労働者の非正規化をなくす」というスローガンが出されたのだが、それとは裏腹に労働者の非正規化はさらに加速し、労働組合に対する弾圧も弱まることは無かった。
 
04年、建設プラントで休日の付与や賃上げを求め、労働者が結集、労働組合が誕生し16回にもわたる団体交渉が開かれたのだが、状況に進展はみられなかった。労働組合はゼネストに突入、705日間にわたる長期闘争が開始された。ストライキは初日から『戦闘警察』による弾圧、企業はスト破りで対抗し、労働者は負傷者が30名、連行・拘束される者は7名という過激なストライキとなっていった。
 
組合幹部は集会で次々と断髪をし(韓国では頭髪も親からもらった大切なものであり、それを大衆の面前で全て剃るということは大変な決意の表れであるとされている)、事態の進展を願い決死の行動を続けた。しかし、ストライキが始まって1か月経っても状況に進展は見られなかった。
 
労組は、現状を市民に訴えるべく総力を挙げてビラを配布。時にはたった一人で社前集会を開き、世間にアピールを続けたのである。 ストライキが長期化し、警察によって連行・逮捕される組合員が出てくると、収入が入らなくなった家族も集会や行動に参加。家族の後押しという何事にも代えがたい援軍が出来ると、組合員の団結がより一層固まっていった。
 
しかし、そのような状況とは裏腹に、韓国国内のマスコミは労働組合の主張には一切目を向けないどころか、ストライキにより職場を占拠し続ける労働者を非難するのであった。 情報操作で世論を味方につけた権力は、籠城を続ける組合員に、その家族が食料を届けに来た時に組合員ではなく、家族を拘束、連行する等の非情な手段にでできた。
 
集会のたびに、戦闘警察が労働者に対し、盾等で物理的な攻撃をしてくることに対し、次第に労働者側も建設資材等で武装せざるを得なくなり、戦闘警察に対応。 集会での行動も次第にエスカレートし、会社敷地の柵等を破壊したりするようになっていった。警察も放水車を使い出すなど装備が過激になり、事態がさらに泥沼に陥って行く中、最後まで労働者とその家族が脱落することなく、闘争が労働組合勝利という形で終結するのである。
 
この闘争での勝因はやはり、労働者が家族の理解を得て、労働条件の向上(人間らしい生活を求める)という要求に対して団結が崩れる事がなかったこと。連行され逮捕された仲間を想い、「やりぬこう」という意思がより一層強まったことだという。


建設労組での学習会が終わり、近所の食堂で食事を済ませた一行は、次なる目的地、38度線付近の観光へと向かいました。 IMJINGAK(イムジンガン)という共和国との国境に面する非武装地域の境目にある駅に到着しました。ここからは有料の望遠鏡を使って共和国の農村を見ることが出来るという場所なのですが、当日(というか全日程)あいにくの曇り空と霧のおかげで残念ながら共和国は全く見ることが出来ませんでした。聞くところによると、ここから見える共和国の農村は「豊かな暮らし」を韓国側から見てもらうためにモデル地区として作られたそうです。
 
そしてここには「自由の橋」と呼ばれる橋があり、自由の橋は1953年韓国戦争の時に共和国から逃げてきた人たちの為に急遽作られたものなのです。

 

京畿(キョンギ)北部地域 新晃レミコン工場訪問
建設労組事務所のあと、新晃レミコン工場を訪問しました。
通りの入口に「連帯ユニオン歓迎」という看板が掲げられていました。
新晃レミコンは建設労組の中で、一番労働条件が良いとされている工場です。出荷状況はだいたい年45万?~ですが、今年は建設需要が落ち込んでおり、35万?程とのこと。価格はモノによって違うものの、一番高いもので10,000円/?。一番多く出荷される生コンは5,000円/?、工場の生産能力は約400?/時間。労働者の賃金は月約400万ウォン(日本円で約35万円)とのこと。しかし、焼却制のため、車両に係る維持費や社会保険などは各自で負担しなければならないことを考えると、かなり厳しい労働条件であると言わざるを得ません。また、韓国では日本のように「10年で車両を乗り換えなければならない」という法律もないため、20年以上にもなるミキサー車が現役で走っており、車輌のメンテナンス費用も個人で負担するには大きすぎるのではないかと思われます。
 
ちなみに、古いモデルの部品でもしっかりと対応してくれるということから『三菱ふそう』が一番人気なのだそうです。また個人でメンテナンスというと、こまめにオイル交換や各フィルター等の交換をすることも難しくなり、日本のような車検制度が無いとなると排気ガスの問題も深刻ではないかと推測されます。
 
実際、ソウルの街中を走る大型トラックがパンクしたタイヤを交換することなく地面に接地させないようにしたままで走っている場面を数多く目にしました。これは、本来会社が負うべき車輌のメンテナンスという負担を全て労働者に負わせていることと、企業に環境意識がないことに原因があり、個人的に持っていた「韓国は日本と同じように行政が率先して環境問題に取り組んでいる」というような勝手な先入観は木っ端みじんに吹き飛んでしまった瞬間でした。
 
また、工場では生コン汚水が垂れ流しにされていることから、周辺の植物が枯れてしまっており、土壌汚染は深刻ではないかと推測されます。さらに、韓国の廃棄物の法律は知りませんが、出されているゴミを見ると分別はお世辞にもされているとは言えない状態で、一般ゴミに混じってエアーフィルターやホース類までもが恐らく一般ゴミ集積所であろう場所に分別されることなく出されていました。
 
建設労組の人に「韓国でも日本で言う廃掃法(※)のようなものはあるのですか?」「国や自治体は環境問題にはあまり熱心には取り組んでいないのですか?」と質問してみると、「会社の敷地内であれば役人がそこまで見に来ることは無い」とのことで、「明らかに法律違反であっても企業が指導を受けたりすることはまずない」という返事でした。

廃掃法(廃棄物の処理及び清掃に関する法律)
→http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S45/S45HO137.html

 

11月6日 モラン公園チョン・テイル烈士お墓参りと全国労働者大会前夜祭
この公園内の墓地には軍事政権下、悪質な資本に立ち向かい、拘束され、殺された多くの活動家が眠っています。 今から40年前、青年チョン・テイルさんは悪質な資本に抗議の焼身自殺を図り、これをきっかけに韓国労働運動が国内で提起されることになりました。仲間たちはチョン・テイルさんを“烈士”と呼び、ソウルから遠いところに埋葬しようと、この地に埋葬しました。その後、「チョン・テイルさんの近くで」ということで多くの人々がこの墓地を選び、「烈士墓地」と呼ばれるようになりました。

◆「チョンテイル烈士」事件
1970年代の南北の分断もあり、東西のイデオロギーが満ち溢れており、銃をぶら下げた軍人が軍事独裁政権の下、街中を闊歩していた時代。経済的には大変厳しい状況であり、1人辺りのGNPは$3000というものでした。 当時の独裁政権は「貧しい生活から脱却し、良い生活をしよう」とスローガンを掲げ、低賃金・労働集約型産業、主に単純な組み立て作業や繊維産業等を奨励し、育成しました。そして韓国は貿易に力を入れ、輸出を拡大していきました。 (訪韓団が宿泊したホテルの近辺は、当時地方から来た10代~20代の女工さんたちが、まるでタコ部屋のような所に押し込められながら働いていた地域だといいます)
 
当時の韓国は農業社会から工業社会へと転換していった時期で、当時の労働者に課せられた条件は殺人的なもので、毎日15~18時間労働が普通だったが最低の生活費にも満たない賃金しかもらえないばかりか、賃金も未払い・不払いが横行していました。「貧しさから抜け出すにはこれくらいのことは必要なのだ」といった雰囲気が社会に充満していたのです。
 
東大門の平和市場の零細工場で働くチョン・テイルさんは、幼い被服工の少女たちが低賃金で劣悪な労働条件で働かされていることに怒りをもって労働運動に立ち上がり、労働法を勉強。「人間らしい生活を」「労働基準法を守れ!」と訴え労働条件改善要求を行いましたが、当時の軍事政権下では、労働組合を結成すること自体が反体制と決めつけられ、チョン・テイルさんは当時の政府から目をつけられることになりました。
 
当時も労働法は存在してはいたのですが、労働者のためになるような法律ではなく、資本のために作られたものである事に気がついたチョン・テイルさんは、それでも「労働基準法は守らなければならない」と強く感じるようになりました。それはあまりにも当然のことです。 しかし、その願いすらも聞き入れられないまま1970年11月13日、意を決して抗議のデモに参加。しかし、デモが強制解散されると我が身にガソリンをかけ、火をはなって22歳という若さで抗議自殺をしました。
チョン・テイルさんの死は韓国にいる知識人に大きなショックを与え、労働問題がそれまで全く議論されていなかった国内の革新的・進歩的な知識人を中心に「今のままではだめなのだ」という意識が芽生えるようになったのです。
 
その後、学生の中では大学を卒業してもホワイトカラーになることなく、現場労働者となる者が激増、労働者の苦しみを共に味わう生活を歩むようになったとのことです。彼の死により、知識人だけではなく学生たちも現場労働者として工場に入るようになったのです。

このようなことが1980年代までに本格的に行われ、軍事政権が倒れた後、人々は真の民主的な政治について考え始めたのです。しかし、チョン・ドファン政権となり、再び軍事政権に突入、数千人の国民を虐殺するという愚挙をまたもや繰り返しました。 これに対し、多くの知識人や学生が怒りを覚え「単にデモをするだけでは世の中は変わらない」と強く思うようになりました。
そして、軍事政権の転覆を真に願い、「それには労働者が組織されなければならない」という結論に立ったのです。毎年4万人にのぼる学生が、ある者は学校をやめてまで現場労働者として工場に入り、ある者は農村に入り、ある者は環境運動に入り、社会の運動に入り込んでいくようになりました。このような現象は10年ほど続き、その中で色々な運動が展開され、現在までの政治的な流れとなったのです。
 
今日ある韓国の民主主義や労働者の権利は、独裁政権と闘った先人の運動や死の上に成り立っているのです。確かにまだまだ不足はあるでしょうが、現在勝ち取った権利はそのように血と汗と命が勝ち取ったもの。チョン・テイルさんの死があってこそ、現在の労働運動があるのです。
 
韓国の労働運動は、まだまだ誤った伝わり方がされているかもしれません。しかし、日本の労働者が韓国の労働運動を学ぼうと毎年多くの人が訪れています。また、韓国の労働運動も日本の1960年代~1970年代の労働運動から学んだものが数多くあるといいます。
 
最近、韓国の若者も個人主義が目立つようになりました。確かに個人の人生も非常に重要なものですが、人生も1人でどうなるわけでもなく、社会を変えようと思えば、やはり労働者が組織化され、前を向いて闘わなければならないのは今も昔も変わらないのです。

 

■生コンの労働組合が最初にできた時に事務局長をしていた人の墓。(写真)
事務局長は2001年4月、韓国国会前に1700台のミキサー車で乗り付け、1か月もの間ずっと停め続けるという闘いを繰り広げた際、資本が雇ったヤクザに殴り殺されました。

 

「間接雇用撤廃、G20反対、闘争現場の勝利の勝ち取り」全国労働者大会前夜祭
この日の夕方、全国労働者大会前夜祭に参加するための移動中に「カンナマシブカ?(関生支部か?)」と尋ねる人がいました。「連帯ユニオン・関生支部は韓国でも有名なのか」という驚きと共に私たちはソウル駅に到着。
 
地下鉄のソウル駅を降りると、既にPink Floydの「Money」が大音量で聞こえてきました。韓国建設労組での学習会で観た闘争映像でもそうですが、韓国の労働組合が作成する映像媒体の凝り様とお金のかけ具合に驚かされます。会場を撮影するビデオ機器もほとんどが業務用の物で、連帯ユニオン・関生支部が記録用にビデオを使用するのとは明らかに用途が違うと感じます。丁寧に作りこまれたショートフィルムの数々は、どれもまるでテレビのドキュメンタリーフィルムを見ているようです。
 
また、韓国は徴兵制があることと、元々の発音のせいか、やはり発言すると凄みがあり、シュプレヒコールも日本のものより危機迫るものがあり「命がけで運動をしている」という感じが存分に伝わってきました。    
 
翻訳に使われる無線機がたびたび断線し、内容を理解することがほとんど出来なかったのが非常に残念でした。


11月7日 建設連盟決起集会・日韓建設労働者決起集会、民主労総全国労働者大会に参加
この日、朝からソウル市内はピリピリとしたムードが漂っていました。
そこら中で見かける様々な種類の警察。 どうやらG20開催前で、集会は認めるがデモに対しては禁止令が出されたよう。
 
そんな中でも午前中の『建設連盟決起集会・日韓建設労働者決起集会』はお笑いあり、決意あり、歌や踊りがありとメリハリが効いたものとなっていました。 相変わらず無線機の調子は今一つで、誰が何を言っているのか今ひとつはっきり聞こえません。
 
午前中の集会が終わり、『民主労総全国労働者大会』の会場に移動を開始しました。「旗を降ろして移動して下さい」とのアナウンスがあり、各労組ごとに列を作って歩いていきます。すると戦闘警察が歩道わきを完全ガードするように横を行進し始めました。教会がミサをやっていようがお構いなしです。
 
ミサのど真ん中を戦闘警察が走り抜けていくという、異様な雰囲気の中で全員が会場に向かって歩き始めました。幹線道路は全て警察のバスが隙間なく駐車してあり、道路には出られないようにされています。 ソウルプラザホテル前のソウル広場に集結した労働者は約50,000人。このソウル広場をぐるりと取り囲んだ警察は約20,000人。残念ながら私たち訪韓団は広場の外周に陣取ることとなり、集会中央の様子をモニターでしか見ることが出来ませんでした。
 
しかし、見渡す限り人・人・人・旗・旗・旗・・・。 私は今まで、これほどまでの集会を見たことはありません。命がけの労働運動をやっている人がこれほどまでに多いのかと思うと、感動すら覚えました。
 
どうやらブラジルの労働者もこの集会に参加し演説をしています。ここでも歌や踊り・ショートフィルムは要所にちりばめられています。考えてみると、国が戦争する際、アメリカでも日本でも中国でもそうだが、戦争映画が頻繁に作られ、歌も多く作られます。さらに群集心理も手伝って人々のテンションを上げるのには、歌や映像はやはり“有効”ということなのでしょうか? そしてたびたび、「PAのコードが盗まれた」「警察がガスを投げてきた」と物騒なアナウンスが飛び交います・・・。
 
集会もいよいよ佳境に入り、禁止令が出ているはずの「デモを決行する」とアナウンスが入ると訪韓団一同に緊張が走りました。G20直前ともあって警察も安易に弾圧が出来にくい場面でもありますが、だからといって労働者に屈する場面を作るわけにもいかないでしょう。かといって労働者も20,000人の完全武装の戦闘警察が会場周辺を完全に包囲している状況では、50,000人いてもさすがに見動きは取りづらい・・・。人々は何度もシュプレヒコールを行い、所々で小競り合いを起こしながら警察とのにらみ合いが続きました。
 
3時間ほどにらみ合いが続きましたが、無事(?)集会は終了となりました。
しかし、警察は緊張を解いたわけでもなく、最後の交流会に向かう我々が旗を立てたまま移動しているとたちまち警察が取り囲むなど、デモ決行に対する警戒感はそこまで高いのかと驚きました。
 
デモを終了し、我々訪韓団の日程は無事終了。翌日帰国しました。

最後に、新潟へ部落解放運動の学習をしに行ったあと、すぐにこの訪韓団参加と、めまぐるしい日々でしたが、共に私にとって得るものが大変多く、新たな気持ちで運動に取り組む意欲をかき立てられました。あらためて、このようなことを実感する機会を与えていただいた連帯ユニオンに感謝しています。

 

モラン公園チョン・テイル烈士お墓参りと全国労働者大会前夜祭
 
建設労組の方々と交流会を開催
       
38度線付近
       
京畿(キョンギ)北部地域
新晃レミコン工場訪問

 

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