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大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会
第5回総会・裁判支援学習会

大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会は7月27日、第5回総会をエル大阪(大阪市中央区)の会議室で行った。総会は学習会を兼ね、沖縄県慶良間諸島にある渡嘉敷島より吉川嘉勝さん(現・渡嘉敷村教育委員会委員長)を招いて講演会を開催。連帯ユニオン近畿地方本部と関西地区生コン支部からは垣沼地本執行委員長以下10数名が総会に参加した。

大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会(ホームページ)は大江健三郎氏と岩波書店が被告とされた「沖縄戦裁判」を支援するために結成された団体である。大江氏と岩波書店を名誉毀損で訴えた原告側に対し、すでに2008年3月28日、大阪地方裁判所で被告側は全面勝利の判決を勝ちとっているが、原告側は上告しており、支援連絡会としては最高裁に向けて「第2審判決を維持し、上告棄却の判決を求める」活動を行っているほか、沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄戦の真実を広く国民に知らせていくため、主に関西を中心に運動を行っている。

総会は、司会進行を連帯ユニオン近畿地方本部・垣沼執行委員長が務め、開会挨拶を代表世話人の岩高澄氏が行った。
その後、事務局から
①1年間の活動報告、
②会計決算報告、
③今期の活動方針(※下記)提案、
④新役員改選、
⑤最高裁への要請書決議の提案、
などが行われ、質疑討論を経て全員賛同のうえ拍手で確認された。

※活動方針案
1,大江健三郎氏と岩波書店が被告とされた「沖縄戦裁判」の最高裁判所での勝利のために、被告及び弁護団と連携して、支援の活動をすすめます。
 
2,最高裁判所への「第二審判決を維持し、上告棄却の判決を求める要請」署名に取り組みます。 要請書「こちら」PDFです。
 
3,座間味島と渡嘉敷島でおきた強制集団死(「集団自決」)をはじめとする沖縄戦の真実を多くの人々に知らせるために活動を強めます。
 
4,文科省による高校日本史教科書の沖縄戦記述に対する検定意見撤回、記述回復を求める運動をすすめます。
 
5,大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会への入会を呼びかけます。
 
6,沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会および大江・岩波沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会との連携をいっそう密にして、運動をすすめます。

渡嘉敷島


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続いて、沖縄県渡嘉敷村在住の吉川嘉勝さん(現・渡嘉敷村教育委員会委員長)を招いての講演を学習会として開催。吉川さんは以前から新聞をスクラップするなどして資料を独自に収集・整理し、教職員時代に沖縄戦の真実を子ども達に伝えていた。学習会に吉川さんは、座間味・慶良間・渡嘉敷などの島と沖縄本島との位置や距離関係、「集団自決」地や〝ガマ〟(沖縄の方便/生活場所兼防空壕とされた洞穴をさす)など、当時の重要地点や施設が書き込まれている詳細な地図や写真のほか、渡嘉敷村での戦没者データを資料として作成、全員に配布された。
学習会では『渡嘉敷島「集団死」の真相』と題し、吉川さんは『「集団自決」場』体験者 として講演を行った。なお、配布されたレジュメの冒頭に〝沖縄戦における民間集団の自決については、その表記に「集団死」「強制集団死」「集団自決」等いろいろあるが、地元報道機関は「」付の「集団自決」を採用し(集団死)(強制集団死)と()書で注釈しているものが多い、ここでも以下「集団自決」と表記する〟と記載されていたので、この頁でも「集団自決」と表記する。

※「集団自決」という言葉は戦後、沖縄タイムスが刊行した『鉄の暴風』の執筆者の一人である太田良博氏が、沖縄戦当時使われていた「玉砕」という用語を言い換えて作り出した言葉である。戦争中に実際に使われていたのは「玉砕」「自決」「自爆」などであった。沖縄では『鉄の暴風』以後、この「集団自決」という言葉が主として使われてきたが、あくまでそれは軍の命令によって起こされたものとしてとらえられてきた。自決とは本来、軍人が敗北の責任をとって行うものであり、民間人が行うものではないとし、援護法で救護対象者の中で自決者に相当する区分があるにしても、日本語の本来の意味において沖縄戦では「集団自決」はなかったとする主張もある。その一方で「集団自決」とは、「住民が犠牲的精神を発揮し自発的に皇国に殉じた」ことを表す言葉と捉えている者も存在する。
沖縄国際大学の石原昌家教授は「“集団自決”という言葉をたとえカギカッコ付きであっても使うべきではない。自決というのは自らの意思によって死んだという意味。したがって、軍人が自らの責任をとって死ぬことに使うことはできても、語句本来の意味から、住民に対しては集団自決という用語は使用できない。集団で命を絶った実態は、日本軍の作戦による強制や誘導、命令によるものだったので“強制集団死”“強制死”として本質をとらえ直さなければ、真実を見誤ってしまう」と主張している。(wikipediaより)

吉川さんは沖縄戦当時6歳であったが、親戚・家族のなかでも当時の記憶をかなり時系列にそって覚えている。あまりにむごい記憶のために(それゆえ語りたがらないお年寄りが多い)従兄弟や姉たちは断片的にしか覚えていなかったり、時系列が間違っているのだという。それは吉川さんがまだ小さかったがゆえに、「なぜ死ななければいけないのか」「なぜこの様なことが起こっているのか」という事情を詳しく知らされぬままで惨状を体験したからだと想像できる。
1944年9月、日本軍が島に来ると吉川さんの家は軍の宿舎に徴用された。吉川さん一家は山の中の壕(ガマ)に移った。壕での生活は半年間続いた。その時の主食は「ソテツ」である。(ソテツは有毒であるがでん粉質も多く、水に晒して発酵させ、乾燥するなどの処理をすれば食用になる。あくまで食料が乏しい時の救飢食。水にさらす時間が不十分だと毒物が残留することがある)

以下、吉川さんの記憶より
1945年3月27日、 米軍が渡嘉志久、阿波連など渡嘉敷島南西海岸より上陸。
翌日の3月28日10時頃、北山(←ニシヤマと読む)自決場に集められた村民たちに手榴弾が配られた。村長が訓辞を行った後、あちこちで手榴弾が爆発し始めた。
母に抱かれていた吉川さんの目の前で兄が手榴弾のしん管を抜いた。しかし、なかなか爆発しない。いらだつ父が「火にぶちこめ!火に入れたら爆発する」と言った。見渡すと、すでに爆発していた手榴弾がつくった火があたりに広がっていた。あたりはすでに地獄絵図と化していた。
不発弾が多いのか、他の家族の手榴弾もなかなか爆発していない。違う方法で自決を図る人もいたが、逃げ出す人も現れた。それを見た従兄弟が、「俺たちも逃げよう!」と言って逃げ出す準備を始めた。
兄は手榴弾を捨て、皆で衣類や刃物を持って場から立ち去ろうとした。その時、父の後方で手榴弾が爆発した。父の背中は焼けこげ、姉も血だらけになっていた。父の返事はなかった。  
 住民集団自決の慰霊塔 <<白玉之塔

吉川さんは、「2007年の9・29県民集会以降、口をつぐんでいた姉たちもようやく当時の記憶を語り出しました。〝忘れていた〟というよりも、あまりにひどい記憶なので消し去っていたのだろう」と語っていた。
赤松隊長が「集団自決」場の北山に村民を集めたことについては、当時の村の安里(あさと)巡査が「住民はどうしますか?」と赤松隊長に聞いたところ、「北山に集めたほうがいいだろう」と示唆したことが判明しているとのこと。「壕に居て村民が捕まり米軍捕虜になったら、日本軍の情報が筒抜けになってしまうので、1箇所に集めたほうが管理しやすい」からで、皇民化教育・軍国主義者教育・沖縄県民差別・交通通信の断絶や自決場のような環境等が「決行を後押しした」のだという。
大江・岩波裁判については、「真実を無視してこういう問題になってしまうことが日本社会の問題で、体験者として怒りを感じる」と語っていた。吉川さんは教職員時代、生徒達に沖縄戦の真実を語ってきたが、生徒達には「なぜそうなるかは自分で考えろ」と自分の思いを押し付けてはこなかったという。最後に、「皆さんの思いに勇気づけられます。これからも〝語りべ〟として頑張る決意です」と感謝の言葉を述べていた。

渡嘉敷島の戦中歴史(渡嘉敷村役場ホームページより)
 
1944年9月8日、 鰹漁船嘉豊丸、源三丸、神佑丸、信勝丸、同乗組員130人軍需部漁労班に徴用され、村営航路船嘉進丸、軍船舶隊に徴用される。日本軍基地隊、鈴本少佐以下1,000有余人駐屯部落内民家、小学校々舎を隊員宿舎に充てられた。
 
1944年9月20日、 赤松嘉次大尉を隊長とする特幹船舶隊130人入村、渡嘉敷、渡嘉志久、阿波連に駐屯。
 
1944年10月10日午前10時、 米軍機来襲、始めて空襲を受く、鰹漁船嘉豊丸、源三丸、神佑丸、信勝丸被弾し死者が出る。
 
1944年10月、 防衛隊員79名現地徴集される。
 
1945年1月、 青年会、婦人会に徴用令下る、学童6年生以上軍に協力す。鈴木部隊沖縄本島へ移動、朝鮮人軍夫220人入村。
 
1945年3月23日、 空襲を受け村役場、郵便局、国民学校、鰹製造加工場、村内主要建物は殆んど破壊され村民10名の犠牲者をだす。
 
1945年3月27日、 米軍が渡嘉志久、阿波連など南西海岸より上陸。
 
1945年3月28日午前10時、住民329人北山(ニシヤマ)にて「集団自決」する。
 
1945年5月、 伊江村民1,700名渡嘉敷部落へ移住。
 
1945年6月23日、 牛島中将自決し沖縄における日本軍の組織的戦闘は終了した、本村の(全戦没者数)日本兵81柱、軍人軍属91柱、防衛隊42柱、住民380柱 計594柱(H20.3.28現在)。
 
1945年8月15日、米軍より終戦のビラ徹布、村民下山、渡嘉敷国民学校々庭にてテント生活営む。
 
1945年8月19日、日本軍赤松隊、国民学校々庭にて武装解除降状。

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