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部落解放同盟浅香支部 フィールドワーク

5月22日の昼から、部落解放同盟の地域での活動を地道に前向きに取り組んでいる浅香支部と関西地区生コン支部とが、支部同士の交流を深めていこうと、高副委員長と執行委員4名と青年部三役の9名で住吉区浅香に伺い、浅香地区まちづくり協議会の山本会長から「浅香の歴史」「地下鉄車庫撤去闘争」「被差別部落の生活」「差別の根本、住宅・教育・仕事」「車庫跡地利用の街づくり」などのお話聞かせていただきました。その後、山本会長の案内で浅香の街をフィールドワークし、参加者全員が浅香の歴史やまちづくりについて学ばせていただきました。

【部落解放の運動とは】
今年の初めに2通の手紙が届き、1通は「えたひにん 研修センターにたかるな乞食」とたった1行書かれた手紙。更にもう1通は11月、浅香支部自慢の「和太鼓」メンバーをつれて、演奏と部落解放の講演をおこなった、島根県の中学校の校長先生から届いたお礼の手紙で「あの後、学校の中でイジメがないかの点検のために子供が中心になって委員会を作り、総点検を行ないました」というものだった。部落解放の運動の人に元気や感動を与える側面と嫌悪感をもたらす側面。このギャップはいったい何か?と40年以上この運動を続けてきた会長からぽつりと出た言葉だった。
「子供の頃は露骨なひどい差別を受けてきた。今は見えにくくなっているのは事実ではあるが、決して差別はなくなっていない。」と言われ、浅香の歴史について語られた。

【浅香の歴史】
浅香の部落は大和川の堤防沿いにウナギの寝床のように細長くあり、33000坪の地下鉄の車庫と、10万坪の大学に囲まれており堤防と河川敷に閉じ込められた形になっている。浅香部落の成立は、1703年の大和川の付け替え工事と深く関わっている。低地帯を蛇行して流れていた大和川は、氾濫が多く流域住民を悩ましていた。そのため、まっすぐに川を南下させて被害を防ごうと、1650年(江戸時代)に中甚兵衛が幕府に提案をして、1704年に付け替え工事が着工した。
今度はこれによって、それまで田畑を潤していた依羅池(よさみいけ)からの水利を断たれてしまった。その為、今度は依羅地区の村々が水の問題に悩まされた。
作物が取れない荒地になってしまった為、当時の農民はみんな年貢を納められず離散していった。これが大きな社会問題となった。摂津・河内地方の被差別の人が中心になって、新しくなった大和川北沿いの荒れ地の「新田開発をしたい」と申し入れて開発が始まった。しかし、開発とは名ばかりで、大和川から水をくみ出すのである。水車を35段縦に積み上げて水をくみ上げるのが主な仕事であり、その仕事は戦後まで続けられた。あとは、仕事というと百姓や又作(地主から土地を借りた小作人から、その土地を借りて耕すこと)、土方や廃品回収(部落の中では天気にしか働けないのでテンヤという)等しか仕事がなかった。

制度上差別がなくなったのは明治維新であり「市民平等」になったと言われている。しかし実際は1871年(明治4年)8月28日に差別の称を廃止するという「大政官布告」が出されている。しかしこの大政官布告は形だけの解放令であった。もしここで、自立する政策がしっかりとなされていれば状況は変わっていたのだが、この時、武士にだけお金を保証し、今で言う公務員の優先採用を行なった。農民は土地を持っており、工人は技術を持っており、商人は商売することができた。しかし、何も持っていなかった「えた非人」は刑史や死んだ牛や馬の処理などしか仕事がなく、生きていくためにはその仕事を引き受けざるをえなかった。住むところも固定され、沼地や河川敷に閉じ込められてきたという。
 
【地下鉄車庫の建設】
1957年(昭和32年)に地下鉄車庫建設計画が持ち込まれた。(当時は大阪市の電気局の車庫)この土地は3万3000坪あるがこれの半分が浅香の人間の土地だった。賛成するなら1700円/坪で買い取るが、反対するなら強制収用をかけると地主たちに手紙が届いた。しかし、字が読めなかった浅香の人は、右往左往しながらもみんなで相談し「反対しよう!」と立ち上がった。しかし部落の中にある2つの考え方により、浅香は二つに割れてしまった。
1つは「立ち上がり闘おう」と言う考え方。もう一つは「寝た子を起こすな」。つまり部落の話をもう出してほしくないと言う考え方。浅香ではこの後者が圧倒的に多かった。隣の矢田や住吉などの地域では既に(昭和32年には)部落解放同盟の支部があった。そのため「浅香の一番いい土地が取られてしまう」と聞いてすぐさま「反対しよう」と駆けつけてくれたのだが「一緒にやったら、うちは部落と間違えられてしまう。」といって排除してしまった。その時、解放同盟は中之島中央公会堂で全国大会を行なっており、方針書には「浅香町に地下鉄車庫を設置すること断固反対」と書かれていた。 しかし浅香の大部分の人たちが「寝た子を起こすな」という考えだったため、結果的に誰も入れなくなってしまった。結局、公民館とその前にある150坪の更地と40人収容の保育所をつくること。この3つが土地を取られた代償となった。
あとから調べてわかった事だが、同じ土地でありながら敷地買収のさいに、部落の土地は1坪1700円、部落外の土地は1坪6500円で買収したことがわかった。結果1960年、3万300坪という広大な敷地の上に、地下鉄我孫子車庫が完成した。浅香の人間の心には敗北感しかなかった。

【浅香の人々の生活状況】
その頃の浅香の人は大和川の河川敷にバラックを建てて生活していた。雨漏りや、川の増水による浸水など劣悪な環境であった。男性の仕事と言えば、浅香から京都南インターチェンジや西宮や橋本まで、5人ほどが荷台付きの自転車でビンの回収に行くと言う仕事や、土方などが主な仕事であった。女性の仕事はというと、夏の暑い中でも小さな子供をリヤカーに乗せて廃品回収を行うというものだった。廃品回収した中で、色の付いた服は家に持ち帰り、10センチくらいに切り裂いてボール状にする事で絨毯の材料として高く売れた。しかし、狭い部屋の中で作業するため、小さな子供は結核で死んでしまうという状況だった。共同水道に共同トイレ、子供は貧乏なため学校に行かすことが出来ず、男性は仕事が無くて家にいることも多かった。しかし、この現状を外から見た場合、現象面で見ると「部落の人は働かないし教育にも不熱心だ」と捉えられる。バラックの家に住んでいるから「汚いな」となる。そういう偏見がどんどん拡大していったのが「差別」である。そういう中で悶々と生活をしてきた。「もう、部落に生まれたら仕方ない」と。
ただ唯一、そのような貧しい生活ゆえに茶碗1つでみんながお粥を分け合って食べることが出来た。「うちは今日のご飯がないねん」と言えば「うちはあるからうちにおいでや」となった。朝のあいさつは「おはよう」ではなく「今日はお粥さん食べたん?」なのである。貧しさの中でみんなが「支え合っていこう」という形はずっとあった。

【住宅の要求運動が母体となって浅香支部設立】
この頃、矢田では1000円で公営住宅に入れる運動を展開していた。(今で言う市営住宅)子供も次々学校に行きだした。「車友公」といって車の免許を取り、学校に行っていないが技術をもって仕事に繋げると言う運動も進められていた。
浅香の部落の中にいた貸し布団業のおっちゃんが矢田に行って「同じ部落だから免許を取らしてほしい」とお願いした。その時、矢田の幹部は貸し布団業のおっちゃんに向かって「なぜ、浅香の人は貧乏なんや?なぜ子供は学校に行けないんや?なぜ雨が降ったら水に浸かる家に住んでいるんや?近隣の者としか結婚もしないし会社員も公務員も居ないのはなぜなんや?」と尋ねた。貸し布団業のおっちゃんは「部落に生まれたんだから仕方ないやん」と答えたという。矢田の幹部は「このままいけば、仕方ないで終わる。みんなで頑張って立ち上がろうや」と説得した。浅香に帰った貸し布団屋のおっちゃんは「浅香のみんなが1番に困ってることって何やろう?みんなの願いは何やろう?」と考える。浅香の住民の願いは「強い風が吹いても屋根が飛んでいかず、雨が降っても浸水しない、まともな家が欲しい」というものだった。
1965年(昭和40年)7月に住宅要求闘争に立ち上がった。「住宅が欲しい人は集まっておいで」と呼びかけた。ところが浅香の人口は2800人で944世帯が住んでいたが、集まったのはたったの100件だった。大多数は「寝た子を起こすな」という思いで「浅香は部落ではない」と言い張り、反対したのだ。「町会」という浅香の中でもまだお金を持っている層があった。この人たちは当時、共有財産として3億5000万円を持っていた。解放同盟に入る人は全て貧乏人だった。住宅要求の闘争の中で浅香の住民が二分し、親が町会にいたらその子供が解放同盟に入ると勘当されるというところまで発展していた。1965年9月21日に住宅要求組合が母体となって、浅香で初めて部落解放同盟の支部が出来た。解放同盟は集まった100件で住宅要求組合を立ち上げ、「差別をなくすため」100世帯に対して150戸の住宅を建てるように要求した。それに対して町会は「浅香は貧しいので」というもとに、150戸の住宅を要求した。
1922年に全国水平社ができてから、日本中の部落に立ち上がろうと呼びかけ、運動を続けたことにより1960年(昭和40年)8月10日に国が初めて部落差別を認めた。国は「寝た子を起こすな」は断じて同意できないとしたのだから、一般住宅については断るべきなのに、解放同盟にも町会にもOKを出したのだ。そのため1968年に住宅150戸は建設されはしたが、入居を巡って矛盾が激化した。新しく建てられた住宅の周りに鉄縄文を張りめぐらせ電流を流すなどが行なわれ、ぎすぎすした人間関係を生み出してしまった。この闘いで二度と失敗してはいけないと学んだ事は、原則として「同一要求・同一組織」であり、分断しないで闘っていくべきである、ということであった。浅香町内の対立は「内部矛盾」と位置づけ、必ず解決できる、と住民の理解を得るために奮闘した。
 
【部落差別の根本、教育と仕事】
それ以降、日常の要求を大切にしながらその要求は何から出ているのかを見据えてやってきた。その結果浅香地区の住民の統一につながり、敵と味方を明確にした。例えば女性がPTAに出る中で、ある日「わたしら『テン屋』のように天気に左右される仕事じゃなくて、学校の給食をつくる仕事は出来ないやろか」と言い出した。まずはそのために識字学級で字を学び、調理師免許を取るため70名が集まり1年かけて調理師免許を取った。免許を取ったら「ここまで頑張ってきたんだから」と仕事を要求をあげて、みんなが学校で働けることになった。そんな女性たちの姿を見て、男性も「俺だって誰にも負けない腕はあるのに」などと声が上がり、そこから「仕事要求組合」ができた。部落差別の根本は「教育と仕事」である。教育の部分では、1970年4月29日に教育を守る会という組織をつくった。当時中学3年生が13名いて、1974年11月3日に1人1人のカルテから問題集をつくり72日間の合宿を行なった。子供たちに目標を持たすために世の中に出ていったらどんな差別があるのか、どれほど過去にいやな目に遭ってきたのかを徹底的に教えた。1974年から90年までの16年間「中3合宿」を行い、個人学級を開いて落ちこぼれのための勉強会を開いた。13名の子供たちは全員公立高校に合格した。
浅香から医者が3名でており、1名はアフガニスタンで「国境なき医師団」で活動している。教師になった者は50~60名ほど居る。

【実態調査で科学的根拠のもとに統一要求を作成】
行政交渉を行う上で、部落の中にある些細なこと全て要求闘争に転化してきたので、当然のように解放同盟に対する信頼が高まっていった。そのことで「寝た子を起こすな論」では差別は無くならないと徐々に気づいていったのだ。同時に、解放同盟の組織率が80%になった時、浅香町はいったい何が問題なのかを科学的に明らかにしようと実態調査をスタートさせた。実態調査の結果として、944世帯2800人いて1世帯当たり3.1人であり、字を書くのに不自由しているのが10人中6~7人、一般の人が8時間労働で15万円強の給料であるのに対して部落の人間は13時間労働で101170円、4人に1人は何らかの疾患をもち、大和川堤防沿いに密集している490戸の80%が不良住宅、大和川の河川敷には202世帯中74世帯が在日韓国朝鮮人であった。これらを1年半調査して分析して、「これでも差別はないのか?」と反対者に問うた。結果10年間かかったが、ようやく住民の団結を取り戻して、初めて浅香が統一した。
1976年3月14日に、支部・町会・民主団体・教育関係者・地下鉄労働組合など、多くの仲間と共に「部落解放浅香地区総合計画実行委員会」を結成。実態調査による科学的な根拠をもとに、統一要求を作成した。3大要求として『①地下鉄車庫の全面撤去と跡地を同和対策用地として利用②大和川護岸改修と河川敷住民の住宅確保・河川敷公園建設③堤防上の旧集落に住宅改良法を適用し全面整備』を掲げ、緊急十項目として診療所や中学校や公衆浴場や身体障害者の施設等々を要求した。

【浅香住民が心ひとつに!徹夜交渉で完全勝利】
1976年6月26日、大阪市を相手に18時間の徹夜団体交渉を行い「地下鉄車庫の撤去に向けて努力する」という確約を勝ち取ることができた。交渉の中で、全面勝利した事に負けないくらいの感動があった。それは交渉の間、町民が公民館で徹夜をして待ち続けてくれたことだった。1987年には浅香支部を初め、共に闘ってきた人たちの悲願であった「地下鉄車庫が撤去」が行なわれた。その他の項目すべてに勝利できる結果となった。
 
【「地下鉄車庫跡地利用街づくり推進協議会」結成】
国と闘ってきた時、とにかく全て共同で使えるものを要求してつくった。(診療所・共同浴場など)なぜかというと、住宅だと誰もが新しくて安いところに入りたいため、揉めるからである。1984年12月、最後の地下鉄「3011号」が出て行くことがわかった日、浅香地区研究集会を開いて「橋のない川なら、橋を架けてみよう」と、住吉区に16万8000人いるがこの半分を組織することを決めた。それからパンフレットを作成して3年かけて周辺住民住吉区東部8万人に「地下鉄の跡地を一緒にこんな街にしませんか」とオルグを何度も続けた。1988年10月18日には、住吉区東部6連合町会を中心に(8万人)「地下鉄車庫跡地利用街づくり推進協議会」を結成。8万人の総意に基づいて4つの理念(人間の街、住民自治の街、水と緑の街、教育と文化の街)を掲げて取り組みが始まった。11月には「跡地祭り」を開き4万人もの人が集まった。更に2回目の「跡地祭り」には5万人が集まった。その時期に天皇陛下が死にかけていたため「それはまずいでしょう?」と言われたが「生まれながらにして尊ばれる人間もいれば、生まれながらにして卑しまれている人間が居る。そんなんでは差別は無くならないで」といって祭りを行なうことになったのだ。大阪市には「跡地については、こちらは提案をしないので皆さんが跡地をどうするか逆提案してください」と言われた。

【不可侵・不可非侵】
差別の垣根は低くはなったが、「差別」は決して無くなってはいない。
浅香地区には差別の落書きがないし、河川敷にはもう住宅はなくなった。浅香地区は大きく変わった。変わった理由を考えたときに「部落解放運動を続けてきたからこうなったのだ」と捉えるだけでいいのか?浅香の中でいろんな施設が出来たけれど、この施設はどこから費用がでたのか。日本に住む私たちが、アジアの多くの被差別の人達から経済侵略した結果であることを忘れてはならない。松本治一郎・元委員長は「不可侵 不可非侵」と教えてくれた。解放同盟は侵されている視点はあったが、自らが侵していることの視点はなかったのだ。アジアの労働力や資源を搾取していないか。アジアの貧困の上に今のこの生活が成り立っていないか?
部落解放同盟は多くの人と連帯していく。沖縄・アイヌ・中国(アジアのスラムの改善闘争を行っている)・・・。現在、浅香支部は44カ国55のNGOと交流している。アジアに住む多くの被差別の民が「浅香の運動が目指すべき道だ」と思ってくれたら自分たちはもっと頑張れるのだ。浅香の運動はダメだと言われたときには、「もう一度しっかり考える」というような視点で物を考えていくことを決めたのだ。 

【差別をなくす視点から発展】
暗いところからは、明るいところが見える。
2002年3月特別措置法が無くなった時「障害者の親の会」を組織した。障害者の子を持つ親は「自分が生きている間は大丈夫だけれど、自分が居なくなった時にこの子はどうなるのだろうか?」と悩んでいた。そこで、その思いを受け止めるために知的障害者通所施設「ハートランド」を建設し、そこで車の洗車やコーティング、パン工房やビルメンテナンスなどを行なっている。そこで頑張った子は浅香パークに就職しており、現在68人の知的障害者の子供たちが通所している。21年前に、部落解放同盟の運動をする上で費用がかかるために、浅香パーソナル・リレーションズという会社を作った。地下鉄車庫の跡地は、撤去したところに建物を建てるのだから、当然掃除の仕事が出る。そこで中高年の仕事を創出した。知的障害者の通所施設を作ったことで見えたことは「離婚率の高さ」と子供をほって父親が逃げてしまうため「母子家庭が非常に多い」ということだった。そこで、母親のためにも知的障害者のグループホームをつくった。現在グループホームは6カ所ある。まだ多くの知的障害者・精神障害の子供たちが家の中に隠されている状態にある。小規模作業所「ゆめや」、訪問看護ステーション「みち」、今年中に高齢者のためのケアホームをつくる。浅香支部は障害者が地域で暮らせる社会「自立と共生の社会」への活動を行なっている。これらを解放同盟全体が出来るようになればいいがまだそれは出来ていない。しかし、やっとここまできた。
今後については児童虐待を受けている子供の家と、少年院や鑑別所から帰ってきた子供の自立支援センターを作りたい。障害者や高齢者の関係の事は差別と重なる部分が多くある。そういう意味で「差別」を広い戦線で打っていく。部落差別という視点から物が見えてきたのだから、もっともっと発展させて行かなくてはならない。海外にも出向いて差別の問題について学んでいる。差別をなくしていくという視点で、一つ一つ共通の課題を克服していく事が大切。

【浅香支部とのフィールドワークを終えて】
会議室での講義のあと、山本会長の案内で浅香のまちをフィールドワークしました。かつてはバラックが建ち並んでいた大和川の河川敷や堤防の様子を丁寧に教えて頂きました。広大な敷地である地下鉄車庫の跡地を歩くと、4つの理念の通りに「水と緑」が豊かな浅香中央公園で、元気に子供たちが走り回り、老人ホームや介護機器の研究所や小規模作業所、訪問看護ステーションなど、弱者の視点に立った『人間のためのまちづくり』が視界に飛び込んできました。
沖縄の学校から取り入れて建築された我孫子南中学校は、茶室があり、ナウマン象の足跡や絵が飾られ、誰でも手にとって土器などを見ることが出来るそうです。各教室にベランダがあり、植物を育てることが出来るように水道設備も付いているとの事でした。AOTS関西研修センターでは、アジア・アフリカを中心に世界中から研修生がここを訪れ、寝泊まりしながら技術を磨いており、浅香支部はここの研修生との交流を行なっているそうです。施設も公園も、浅香地区専用の施設などは1つもなく、多くの市民が来て施設を利用してくれるようにと作られており、そこで地元の人たちとの繋がりができ、部落問題への認識を深める事が出来るはずだと山本会長が語られました。今回この浅香支部のフィールドワークを通じて本当に多くを学ぶことができました。
同じ人間が受けた「差別」というはかり知れない傷の深さについて。「差別」の痛みや苦しみに押しつぶされて「存在し続ける差別」から逃げてしまわず、怒りを原動力に変えたこと。日常のみんなの要求を大切にしながらその要求は何から出ているのかを見据え、敵と味方を明確にしたこと。浅香地区の問題点を明らかにするための調査を丹念に行い、結果を分析して勝利に導いたこと。人への優しさや立ち向かう強さ。これらは私たち労働組合で学んでいることと共通しており、その重要性を更に知ることが出来る一日となりました。次回は是非、今回聞くことが出来なかった浅香支部ご自慢の「和太鼓」の演奏を見学したいです。

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