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2010南大阪・東南地域沖縄現地学習会に参加して
米軍普天間飛行場

住宅地に隣接している。常に騒音や、民間住宅への墜落の危険性がある。

過去の墜落事故
2004年8月13日ヘリコプターCH-53Dが訓練中に沖縄国際大学に墜落。この時校舎1号館に接触し炎上した。幸いにも民間人に負傷者は出なかった。この事故で搭載のストロンチウム90(放射性物質)が6個の内1個が不明となる。これによりアメリカ軍は、機体だけでなく周りの土壌も回収した。放射能土壌汚染について大学も調査するなどした。

毎年、5月に実施されている南大阪・東南地域沖縄現地学習会に総数18人、近畿地本垣沼委員長と関西地区生コン支部北大阪Bブロックから参加した。 本年は、5・15沖縄平和行進の日程に併せて5月14日~17日まで沖縄を訪問した。

<5月14日>1日目
神戸空港を8時20分に出発。那覇空港に10時50分到着。沖縄バスの小型バスに乗り「ひめゆり平和祈念資料館」へ向かった。今年も沖縄平和ガイドの方に同行していただき、各見学先で説明を受けた。

① ひめゆり平和祈念館 
米軍の沖縄上陸作戦が始まった1945年3月23日深夜、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒222人、教師18人が那覇市の南東5キロにある南風原の沖縄陸軍病院に配属された。

米軍の侵攻で南下する学徒


4月1日に米軍は、沖縄本島中部西海岸に上陸。南下に伴い日本軍の死傷者が激増、学徒たちは移送されてくる負傷兵の看護、水くみなどに追われていた。5月下旬米軍が迫ってくる中、学徒たちは日本軍とともに陸軍病院を出て、本島南部に移動した。激しい砲攻撃の続く中で南風原陸軍病院壕で看護に努めていた。米軍の攻撃で240人中136人が亡くなったのである。

その後、ひめゆりの塔の下にあるガマ(壕)には中で亡くなった人たちの遺骨があった。米軍兵士が勝手にガマに入り遺骨を持ち出したりしていたので、個人が土地を買い、そこに「ひめゆりの塔」を建立した。89年6月には、「ひめゆり平和祈念資料館」が建設され、以後沖縄戦の悲惨さを通して平和の尊さを訴えている。私は、沖縄に来る度に「ひめゆり平和祈念館」を訪れている。14~18才までの女学校生徒が沖縄戦で傷病兵の看護や遺体処理などを手伝わされ、砲撃の中を逃げまとう姿を想像するたびに心が痛む。


② 米須海岸の入口にある忠魂碑
ここにある忠魂碑は、北部から追い詰められて米須海岸で砲弾攻撃により逃げまどい亡くなった人たちの骨がまとめて埋葬されている。忠魂碑の上に穴があり、そこを開けて見つかった骨を入れたのである。





③ 摩文仁の丘・平和公園「平和の礎」

ここにある「平和の礎」の中で、未だに記載を拒んでいる韓国・朝鮮の人たちの石碑がある。日本人名はびっしり書かれてあるが、この所だけは空白になっている。戦争中に朝鮮半島から沖縄に軍夫として強制連行された者や「慰安婦」として軍と一緒に来た人たちである。日本政府は、正式に強制連行された人たちや「慰安婦」への償いは、「日韓条約」締結で終了したとして一切行っていない。その後、摩文仁の丘にある慰霊塔を見学した。

平和祈念堂の隣にまんじゅう型の石塚がある。75年8月に建立された「韓国人慰霊塔」だ。石塚の周りには、韓国から運ばれてきた石がはめ込まれている。この碑文に「1941年、太平洋戦争が勃発するや多くの韓国青年たちは日本の強制的徴募により大陸や南洋の各戦線に配置された。この沖縄の地にも徴兵、徴用として動員された1万余名があらゆる艱難を強いられたあげく、あるいは戦死、あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった」と刻まれている。私たちは、冥福を祈った。
最後に第32軍の牛島軍司令官と長参謀長が最後に閉じこもった壕を見学した。自然壕(ガマ)でなく軍がコンクリートで造った陣地壕だ。6月19日、軍司令官は隷下部隊に最後の命令電文を発して作戦を打ち切り、6月23日にこの壕で両名は割腹したと言われている。

④ 糸数アブチラガマ

アブとは深い縦の洞窟を指し、チラとは崖のことを指し、ガマは洞窟やくぼみを指す。アブチラガマは、沖縄本島南部の南城市玉城字糸数にある自然洞窟(ガマ)だ。


沖縄戦時は、日本軍の陣地壕や倉庫として使用、戦場が南下するにつれ南風原陸軍病院の分室となった。軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配備され、全長270mのガマ内に600人以上の負傷兵で埋め尽くされた。1945年5月25日の南部撤退命令で病院が撤退した後も、糸数の住民と生き残った負傷兵、日本兵の雑居状態となり、米軍の攻撃に遭いながら生き残り、8月22日の米軍投降勧告に従い、住民と負傷兵はガマを出た。
ガマのなかは、広くて立って歩ける状態だ。病棟も作られ負傷者も多く運び込まれていたという。ガマの入口近くには米軍の攻撃で飛ばされた缶が壁に突き刺さったままで残っていた。いまでも岩の隙間に遺骨が残っており、見つけた人が一カ所に集めて祀っている。
一日目の見学会終了後、バスで国際通りにあるホテルまで移動、シャワーを浴びてからホテル内で夕食交流会を行った。

<5月15日>2日目
朝8時にホテルを出発。

① 嘉数高地
宜野湾市にある嘉数高地を訪問。高台近くにある日本軍が使用していた壕を見学、ここは沖縄戦で米軍が猛攻をかけてきた場所で、陥落するまで2週間の攻防戦が続いた。丘の上には3つの慰霊塔があり、一つは「京都の塔」で、この地で戦った第62師団に京都出身者が多くいたので碑が建てられている。碑文には、日本軍に道連れにされた地元住民の犠牲者への哀悼の念と戦争に対する反省の意が刻まれている。
もう一つが「青丘の塔」で、朝鮮から強制連行され弾薬運搬や陣地構築作業に使役され、この高地で戦死した朝鮮人軍夫を祀っている。残りの1つが「嘉数の塔」で地元住民を祀っている。嘉数部落の住民は沖縄戦でここに留まり、弾薬運搬や炊事などで部隊に協力していたため、戦闘に巻き込まれた住民695人のうち347人が戦死した。

展望台から普天間基地を望む

その高台に展望台があり、米軍が上陸した読谷、嘉手納の海岸から中部戦線の全体が見渡せ、普天間基地も一望出来る。訪問したのが土曜日だったので航空機の離発着はなく、C130輸送機とヘリが待機していた。

また、東の方向には前田高地が見える。ここは、沖縄戦で総力をあげた攻防戦を50日間も繰り広げ、日本軍が約6万4千名が戦死、米軍も2万6千名の戦死傷者を出したところで、日本軍は主力の8割を失った場所である。

 
② 辺野古「ヘリ基地反対協議会」を訪問
嘉数高地からバスで辺野古まで移動。さっそく現地ガイドの方から現在の状況について説明を受けた。天気が良かったらボートを出して沖からキャンプシュワブやV字型滑走路基地建設を計画している場所、ジュゴンのエサ場などを見学する予定だったが、あいにくの雨と波が高いため中止、陸上から見学した。

辺野古海岸の樹木
辺野古海岸

 

辺野古海岸に行くと米軍基地キャンプシュワブの境界線有刺鉄線に黄色いリボンや赤い布で「新基地建設反対」「米軍は沖縄から出て行け」と書いて巻き付けていた。4月25日の県民集会や5.15平和行進の人たちが訪れた時に巻き付けたものだと思う。
その後、大浦湾の瀬高地区に移動して、湾内の自然環境についてパンフレットを見ながら説明を受けた。アオサンゴなど希少サンゴの棲息地であり、希少動物ジュゴンが食べる海草藻場もあり、ここにV字型滑走路をつくると潮の流れが変わり自然環境が破壊される危険性が高くなり、漁業で生計を立てている漁民にも経済的打撃を与えることになる。鳩山首相が普天間基地の代替え地に、辺野古の自然環境を破壊してまで強行しようとする姿勢に怒りが沸いてきた。

③ 5.15平和とくらしを守る県民大会
辺野古近くの食堂「かっか」で昼食を済ませ、宜野湾市まで戻り「5.15平和とくらしを守る県民大会」(宜野湾市海浜公園野外音楽堂)に参加した。大雨のため平和行進団の入場が遅れ16時半から開催された。主催者を代表して沖縄平和センターの崎山議長から、沖縄が復帰して38年目を迎える、復帰後も広大な米軍基地は沖縄に居座り続けている。米軍基地から派生する事件や事故は後を絶たず、昼夜を問わぬ戦闘機の爆音や軍事演習による基地被害に苦しめられている。昨年8月に民主党連立政権が誕生し、普天間基地の「国外・県外」への移設するという公約的「約束」が二転三転し、結果県内移設で辺野古浅瀬桟橋案という沖縄県民を裏切る内容となっている。本集会で我々は、普天間基地の即時返還、新基地建設反対を強く訴えて、明日の普天間基地包囲行動を成功させようと決意を述べた。
社民党、沖縄社大党、宜野湾市長、名護市長、辺野古ヘリ基地反対協議会、沖縄反戦一坪地主会など各代表から決意が述べられた。
集会終了後、大雨の中那覇市までバスで移動、シャワーを浴びてから沖縄料理店で夕食会を行い、泡盛の10年古酒を堪能した。

<5月16日>3日目
ホテルを9時に出発しバスで目的地に向かう。

① 小桜の塔・海鳴りの象・対馬丸記念館 

展示されていた対馬丸模型

太平洋戦争末期の1944年8月22日、沖縄から長崎に向け航行中の学童疎開船・対馬丸が、悪石島付近で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没、乗員・乗客1788人中、1418人(学童775人)が犠牲になった。日本の制海権も米軍に奪われているなかを船を使っての疎開がいかに危険かは、公然の秘密だった。にもかかわらず学童を疎開させたのは、政府の決定と軍の命令に逆らえなかったためだ。当時の日本軍は、決戦を前に足手まといになる子どもや老人などを排除する。


学童の写真
海鳴りの像

沖縄がたとえ玉砕しても、将来敵を攻撃するために必要な跡継ぎを遺しておく。軍の食糧確保のため口減らしを行う、という狙いもあったと言われている。この対馬丸事件は、軍の機密保持のため箝口令がしかれ、生死はおろか、撃沈という事実も隠蔽されたままだった。戦後になってやっと公表された。那覇市旭が丘に、対馬丸事件を風化させないため2004年に「対馬丸記念館」がオープンし、幼い児童の死を弔うため98年に小桜の塔が建立され。遺族会も海鳴りの像を建て弔っている。

② 米軍嘉手納基地
アメリカは、1853年にペリー提督が沖縄を訪問したときから戦略的な重要性を認識し、太平洋進出の拠点として位置づけていた。太平洋戦争の末期に沖縄を占領したアメリカは、日本本土攻撃の前進基地として利用し、敗戦後も日本を監視する基地として、当時のソ連、中国にたいする「共産主義封じ込め」の拠点として使用してきた。以来、沖縄は「太平洋のカナメ石」位置づけられ、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争に至るまで米軍の出撃、中継、補給基地としての役割を果たしてきた。在沖米軍は、海兵隊、空軍、海軍にプラス軍属、家族を合わせると約5万人余りが駐留している。
太平洋地域最大の空軍基地が嘉手納である。広さ約2007万平方メートル。4千メートルの滑走路2本あり、緊急有事に即応できる体制を確立している。 この基地も沖縄戦終了後、住民を収容所に隔離しているあいだに、有刺鉄線を張り住民の土地を強引に奪い、現在の広さまで拡張したのである。


嘉手納基地が見える道の駅で、一坪反戦地主の有銘さんから基地の現状を聞いた。嘉手納基地により北谷村は分断され、現在は北谷町と嘉手納町になっている。北谷町の56%、嘉手納町の83%が米軍基地に占拠されているため、隣町に行くにも基地の周辺道路をぐるりと回らざるを得ない。
また、戦闘機による離発着訓練(タッチアンドゴー)や低空飛行などで騒音がひどいため82年に米軍夜間飛行禁止などを求めて提訴、16年間かかって騒音被害は国の賠償責任が認められたが、夜間飛行差し止めは認められなかったため2000年に再度裁判を起こしている。また、隣接している嘉手納弾薬庫には、1969年に米兵がガス中毒で病院に運ばれる事件が発生して毒ガスが貯蔵されていたことが発覚、71年に米国内の施設に移送されたことがある。また、核兵器についても貯蔵するための特別弾薬庫が設置されていた。沖縄返還時に日米両政府の合意で撤去されたことになっているが、何時でも核兵器を持ち込むことは可能な状態になっている。こんな危険と隣合わせの米軍基地は沖縄から出て行くべきだと思った。

③ 普天間基地包囲行動

昼食をバスの中で食べ、我々が包囲行動に参加する宜野湾市役所まで移動。バスを降りて基地側に渡り並んで待機した。14時からの包囲行動は3回実施したが、その間ずっと雨が降り続き歩道が川になっていたところもあった。包囲行動に1万7千人が参加して大成功に終わった。

④ 読谷村役場
読谷村役場は、高台にある読谷飛行場跡に立っている。ここは、米軍のパラシュート部隊降下訓練として使用されていた。1965年には、落下傘を付けたトレーラーが目標を外れて近くで遊んでいた児童の上に落ち死亡する事件が発生。そのため地主は米軍に土地を帰すよう要求したが米軍は居座り続けていた。粘り強い基地返還の闘いで1997年に村役場が現地に建った。ここは米軍は使用していない一部用地を利用して建設されている。
役場の敷地内に憲法9条の碑が建てられてあり、平和憲法が世界に誇る憲法であると示している。

⑤ チビチリガマ 
1945年4月1日に米軍は、読谷・北谷の海岸から約6万人の兵士が無血上陸した。 このとき読谷と嘉手納飛行場を占領、日本軍は兵力不足から飛行場を放棄して南部に撤退したため、上陸地点には数千の住民は取り残されていた。上陸早々にチビチリガマの周囲は米軍に包囲され、ガマの中には141人が避難していた。4月2日に男たちが、米軍の投降勧告を拒否して、竹槍をかまえて米軍に突撃したが米軍の攻撃に2人が重傷。ガマの中はパニックに陥り、3日に「集団自決」で85人が絶命し、死にきれない人たちが米軍に救出された。戦後、このガマを訪れる人は居なかったが、83年に児童文学作家の下鴨氏の呼びかけで地元の青年グループが実態調査を行い、はじめて全容が分かってきた。ガマは遺骨収集をしたあとに、平和学習の場として整備され公開された。 ガマの入口には金城実さんが建立した「世代を結ぶ平和の象」が鎮座している。見学終了後、大雨のなかバスで那覇市のホテルまで移動した。19時20分から近くのステーキハウスで最後の夕食会を開催し、大雨のなか現地学習会が成功裏に終わったことを参加者一同確認しあった。

<5月17日>4日目

① 日本軍司令部壕

午前中は、首里城にある日本軍司令部壕跡を見学。首里城には、軍司令部が設置されていたため米軍の猛攻をうけ消失、現在の首里城は1992年に復帰20周年を祈念して復元されたものである。現在も司令部壕が一部残っている。歓会門下の円鑑池のほとりに弾痕なまなましいコンクリートの残骸が点在している。

終了後、国際通りまで移動、牧志市場で土産物を買いホテルで集合後、那覇空港へ向かい、14時20分発のJAL便で帰途についた。
今回の沖縄現地学習会は、梅雨のまっただ中で到着したときから雨が降り続き、普天間基地包囲行動でも豪雨のなかで行われた。天候の悪い中、各地でガイドをしていただいた方に感謝します。未だに戦後が終わっていない沖縄の実相にふれ、日米安保条約の破棄と米軍基地の日本からの撤退させさせなければならないと思った。

2010年5月20日
全日本建設運輸連帯労働組合近畿地方本部
執行委員長 垣沼 陽輔 

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