連帯ユニオン 近畿地方本部 関西地区生コン支部 近畿地区トラック支部 近畿セメント支部 労働相談-ホットライン
YouTube
NPOMOAベトナム訪問団に参加して
NPOMOAは、08年10月3~6日までベトナム社会主義共和国ホーチミン市を訪れた。今回は、「ベトちゃんドクちゃん分離手術成功20周年記念式典」に出席するため、大野代表理事を団長に近畿地本から垣沼書記長(副代表理事)ほか5名が参加した。

 

10月3日に関西空港を発ち午後2時過ぎにはホーチミン市タンソニャット空港に到着。空港には、ドクくん夫妻とフォトジャーナリストの中村梧郎さんが私たちを出迎えてくれた。 バスに乗り換え市内にある「ツーヅー病院」を訪問した。

病院内にある枯れ葉剤被害者の障害児童が入院する「平和村」の応接室でタン責任者ほか2名と私たち7名にガイドで懇談した。今回は、大野代表理事が就任後初めてベトナムを訪問したので表敬訪問も兼ねて行った。
タンさんからは、NPOMOAの方々が何度もツーヅー病院を訪れていただき、ベトナムと日本の友好を深めていることに感謝する。また、枯れ葉剤被害による子どもたちへの支援をしていただいていることに御礼をのべたい。大野代表理事が初めて平和村に来られたので説明をしたい。 この病院は、女性と子どもの専門病院で、出産する妊婦のための産婦人科、新生児のための小児科があり、感染病を診る科が100床、枯れ葉剤被害の科が60床ある。全部で16科ある。ベットは1,000床あり、毎日出産がある。

枯れ葉剤被害による障害児童は60人が入院し、250人が通院している。この60人は親たちの世話でなく、この病院で生まれてから成人するまで暮らしている。ここでは、病気を治すこと、仕事をしながら社会生活が出来るように取り組まれている。

ドクくんは、平和村で育ち、いまは平和村で働いている。ベトナム戦争が終わってから33年経ったいまも障害児が生まれている。年間平均550人で全出産の1.1%を占める。
出産した児童で障害が軽い場合は自宅で、重い場合は病院で暮らしている。治療費も掛かるのでチャリティなどをしながら資金を集めている。
説明を受けたあと、平和村の中を案内していただき、枯れ葉剤被害によって死産した新生児の標本保存コーナーを見学。08年7月に生まれた新生児の標本があったのには驚きだった。平和村に入院している児童に日本から持参したアニメシールなどを配布するとみんな喜んでシールを服などに貼っていた。中には寝たきりの児童も居り治療と介護の大変さも実感した。 訪問に際して、NPOMOAから支援金20万円を平和村に寄付を行った。

 10月4日は、「ベトちゃんドクちゃん分離手術成功20周年記念式典」に参加した。会場はホーチミン市内の統一会堂の敷地内にある講堂で、式典は9時から開会した。
最初にツーヅ病院ファン・ヴイェト・タン病院長から報告がされ、その中でベトくんドクくんが1981年2月25日にヤー・ライーコントゥム省サ・タイ県の診療所で産声をあげ、数千キロも離れたハノイにあるベトナム・東ドイツ友好病院へ移されたこと。ハノイは冬が寒いので暖かいホーチミン市ツーヅー病院へ転院し治療を行うことがきまり82年12月に転院して、2人は介護うけることになった。
83年1月に、アメリカ軍による枯れ葉剤の人と自然に及ぼす長期的影響に関する第1回シンポジウムがホーチミン市マジェスティックホテルで開催され、フランス、アメリカ、西ドイツ、オランダ、チェコスロバキア、カナダ、オーストラリア、中国、ラオス、カンボジア、日本、韓国、ソ連、東ドイツ、ポーランドなど世界22カ国から専門家が集い、枯れ葉剤被害について議論をした。
1986年6月にベトチャンが急性脳炎を発症し意識不明となったため、日本赤十字社に協力を要請し、日本へ緊急搬送して一命を取りとめたのである。この時に、二人の分離手術について日本赤十字社へ協力要請した。
そして2年後の1988年10月4日午後7時、ベト・ドクの分離手術成功という、ベトナムにおける医療分野にとって躍進的な偉業を達成することができた。あれから20年という月日が過ぎ、ツーヅー病院は現在、病床数1,000床という南ベトナム最大規模の産婦人科病院として知られるようになった。また、1980年代には、障害児を出産した母親とダイオシキンの影響に関する研究が行われ現在に至っている。
ツーヅー病院内には、障害孤児を養育する場所として平和村があり、ベト・ドクを典型とする不幸な生を受けた子どもたちに対する、医療関係者やキリスト教関係者、里親といった人々の限りない愛情と高い責任感が必要とされる施設なのである。
分離手術後、ドクくんはどんどん回復して2006年12月16日には結婚し、幸せな家庭を築いた。一方ベトくんは、弟によりよい生活をもたらすため、体のもっとも機能する部分のほとんどをドクへ譲り、病院内で手厚い介護を受けながら20年近くも続いた植物状態を乗り越えることができず、2007年10月16日に、多くの人に惜しまれながら帰らぬ人となった。
今回20周年記念の開催に際して、これまで多くの支援を頂いた日本の友人の皆様に感謝申し上げたい。と述べた。

 続いて挨拶に立ったグェン・ティ・ゴッグ・フーン元病院長は、ベト・ドクちゃんの分離手術に至るまでの経過を詳しく報告。日本の藤本文朗教授などの支援団体から特製車椅子を送られたこと。分離手術の際には、日本赤十字社から多大な支援を頂いたこと。
ベト・ドクの分離手術が決まった時に、手術の成功に向けてチームが編成され手術室を拡げ、感染症予防などのため新しく改装するなど、準備が着々と進められた。
手術用医療機器や器具、薬剤、手術用具の全てを日本赤十字社から寄付を頂いたこと。この手術に70人以上の手術関係者と国内外から数百人もの新聞記者やテレビ関係者が集まり手術を見守ったこと。テレビ中継を見た国民たちが次々に駆けつけ見舞金やお見舞い品などが届けられたため急遽、寄付の窓口を設置したことなどが思い出される。
その後の2人の成長過程についても注意深く進めたこと、ベトくんが植物状態にあったが、それでも19年間以上生きることができたことは、ツーヅー病院平和村関係者の苦労は図りしれないと報告した。

 ホーチミン市保険局元局長のユーン・クアン・チュン博士は、20年前のベト・ドクちゃん分離手術は、ホーチミン市だけでなくベトナム全国の世論を揺り動かす一つの大きな出来事であった。当時は、ベトナム国家、ホーチミン市も経済社会面で非情に困難な状況にあり、ベトナム戦争後、対外的にも開放しておらず、国内においては疲弊していた時期であった。
1986年にベトちゃんが急性脳症を発症。その後の後遺症で脳性麻痺となり植物常態に陥った。 このまま二人を放置していてはドクちゃんの生命も危うくなるので、1988年に分離手術することを決断し、10月4日に分離手術を行うこととなった。
15時間にも及ぶ歴史的な手術がツーヅー病院で行われ、各科毎にチームを組み分離手術に臨んだ。この手術から学んだことは、第1に、ベトナムの医療分野は、多くの世代を通じ、一つの人道的かつ人間の愛情に満ちた医学の土台を築いたこと。第2に、愛情とは、人間にしかない感情であり、それは、自身の人間性から生まれるものであるべきだということ。第3に、成功のためには、忍耐と連携、そして科学的根拠に基づくことが必要であること。第4に、連携とデモンストレーションの重要性。第5に、国境を越えた愛情、であると述べた。
日本からは、ベトチャンドクちゃんの発達を願う会代表の藤本教授と、NPOMOAを代表して大野代表理事と奥野理事が挨拶に立った。
大野代表理事は、これまでの支援活動に止まらず、今後も支援活動を継続する決意を述べ、奥野理事から大阪市長の親書を読み上げ紹介した。 このあと、分離手術に立ち会った医師や日本でドクくんの義足を作成した支援する会の代表などが当時のことについて述べ合った。最後に参加された報告者の方々にドクくんから御礼の花束が贈呈された。式典終了後、場所を移してランチパーティが開催された。

  午後は、市内にあるホーチミン市外国語情報技術大学を訪れた。学長のフン・ティ・クォックさんとツーヅー病院平和村で出会ったときに、ぜひ私たちの大学を訪問してほしいと申し入れがあり表敬訪問が実現したのである。ここには、日本語学科があり3人の専任教師と700人の学生が日本語を学んでいる。京都にある仏教大学との交流を深めており相互に留学生を派遣している、とのことだった。
部屋に案内されると、学長と3人の専任教師、15人近くの学生が居たのでびっくりだった。 私たちは、相互にベトナムや日本の印象についてどんなことに興味があるのか意見交換を行い、熱心に日本語を学ぶ姿が印象的だった。学生たちは、ダイオシキンを米軍が撒いたことに大きな関心を持ち、ツーヅー病院を訪れ障害孤児たちもよく遊んだりしている。ドクくんも大学を訪れて学生たちとも仲良くしていると報告がされた。

10月5日は、1975年4月30日に南ベトナムが解放されたとき前線となっていたクチ村を訪問した、市内からバスで約1時間半、カンボジアとの国境に面した小さな村である。ここに米軍は繰り返し攻撃を加えたが、解放戦線側は米軍の攻撃から身を守り反撃するため地下トンネルをクチ一帯に掘ったのである。その長さは200キロにも及び内部はまるで蜘蛛の巣のように多くの階層に分かれ、中には台所や会議室、病院も設置されていた。 ここには、戦時中に使われた落とし穴や罠が展示されている。
私たちもトンネルに入り一人がやっと通れる中を体験、当時の戦争を思い起こした。昼食後、戦争証跡博物館を訪問、アメリカはじめアジアからの観光客が見学に訪れていた。ここでもダイオシキンによる枯れ葉剤被害の実態が紹介され、ソンミ村大虐殺事件など米軍がベトナム戦争で多くの民衆を殺戮したことが紹介されていた。
また、政治犯を長期に投獄したコンダオ島の「虎の檻」が敷地内に再現されており、ここに入れば生きては帰れないといわれた牢獄とフランス植民地時代に使われたギロチンが展示されている。
私たち訪問団は、全ての日程を終え、タンソニャット空港を深夜0時10分に発ち6日の早朝関西空港に到着した。
今回は、3日間という短い滞在であったが、ベトちゃんドクちゃん分離手術20周年記念式典に参加できたこと、ベトナム戦争当時の激戦地クチを訪れたことなど内容の濃い訪問となったこと、ツーヅー病院平和村を訪れ友好・親善をさらに深められたことなど、成果を実感するものであった。
来年秋にドクくん夫妻が日本を訪れる予定になっているので、NPOMOAも大阪での受入団体として準備をすすめていく。

 

       2008年10月 
NPOMOA 副代表理事 垣沼陽輔

連帯ユニオン議員ネット