能勢ナイキ闘争勝利50年記念集会


能勢ナイキ闘争勝利50年記念集会

6月19日、PLP会館5F大ホールで「能勢ナイキ闘争勝利50年記念集会」が100名余りの参加で開催されました。

基地建設を撤回へ
冒頭、主催者代表して、戦争をさせない1000人委員会代表の米田さんは、「今から50年前の1970年は、ベトナム反戦、沖縄返還闘争が高揚し、70年安保条約改定に反対する全国統一闘争が取り組まれている時期でした。この運動に学び安倍政権が唱える〝ミサイル防衛構想〟に反対する闘いに繋げましょう」と挨拶されました。

闘争勝利の要因
その後、問題提起を「能勢ナイキ反対闘争の経過と教訓」(*)について一丸雅和さんから、報告を受けました。そして、ナイキ反対闘争の教訓を7点示しました。
① 徹底した学習会を開催し、防衛庁の説明を超えたこと

② 地元民の結集が強かったこと

③ 反対運動の組織化が進んだこと

④ 周辺の自治体や行政に反対運動が広がったこと

⑤ 全関西集会への結集が高まったっこと

⑥ 5地区労共闘会議を中心に基地撤回運動が高まったこと

⑦ 政治的イデオロギーを介入させず闘いを維持できたことが反対闘争の勝利に繋がったと総括されました。

配備を断念
講演「朝鮮戦争70年、安保60年と基地日本の現況」をテーマにジャーナリストである前田哲男さんからお話ししていただきました。
「能勢ナイキ基地反対闘争」の取材に関わったのは、「社会新報」特派記者として現地取材を行った時でした。能勢にナイキ基地建設が計画されたのは、第3次防衛力整備計画(1967年~71年)のもと日本本土を攻撃する敵国の爆撃機を撃墜するため地対空誘導ミサイル「ナイキJ」を配備する計画が推進されました。しかし、猛烈な地元民の設置反対運動で「能勢配備を断念」することになり、その結果、関西配備第4高射群は、各務原2個高射隊、白山(三重県)とあいば野(滋賀)に配備されました。

日本が米国の盾に
本年6月15日に配備計画が停止されたイージスアショアは、いつでも「先制攻撃用中距離ミサイル基地」に変更が可能で、その「目」となる経ケ岬~車力のXバンドを統括する司令部=第38防衛砲兵旅団司令部が相模原に設置され、日本列島全体がアメリカ本土防衛の第一線に立つことなります。 「能勢ナイキ基地反対闘争の教訓は〝基地建設は断念させることができる〟です。私たち護憲側からの「専守防衛の定義」明確化と、自衛隊の規模・装備・任務をそこに適合させることが必要になってきます」と締めくくられました。

◆地対空誘導弾 ナイキJ
1970年(昭和45年)、日本の航空自衛隊が、ソビエト連邦の高高度戦略爆撃機の脅威から自国を防衛するために、MIMー14「ナイキ・ハーキュリーズ」を地対空誘導弾ナイキJとして導入。導入時には、「核兵器の搭載が可能」ということをマスメディアが取り上げ、革新政党と市民団体による反対運動が展開された。1994年(平成6年)まで運用されていた。

ウィキペディアによると
1959年6月に事故  沖縄の米軍に配備されていたナイキのミサイルが誤射事故を起こし、沖合に着水した。後に誤射ミサイルが核弾頭搭載の核ミサイルであったことが分かった。




(*) 能勢ナイキ基地反対闘争

1970年(昭和45年)6月、大阪府能勢町に航空自衛隊の地対空ミサイル「ナイキJ」の基地建設計画が持ち上がった。労働組合や地域住民が中心に反対運動を展開。71年7月に「能勢ナイキ基地設置反対住民連絡会議」が設立。人口1万人の町で3000人を超える集会を開き、デモや署名活動も続けた。運動の記録映画も作られた。7年近くの闘争の末に撤回された。


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