連帯ユニオン 近畿地方本部 関西地区生コン支部 近畿地区トラック支部 近畿セメント支部 労働相談-ホットライン
YouTube
 文字の大きさ
  現在:
    文字小←  →文字大
  文字サイズ
   

福島県平和フォーラムが取り組む 「放射能のない福島を返せ!原発のない福島を求める県民集会」「原水禁世界大会・福島大会」に参加して

放射能のない福島を返せ!原発のない福島を求める県民集会 

  
1. 7月31日(日)11時から復興支援・脱原発コンサートが福島市にある「街なか広場」で小雨降る中開催されました。コンサートのなかで、原発事故がもたらした放射能被害が福島県民だけでなく広範囲に拡がっていることへの憤りと怒りを東電や政府に届けようと訴えていました。

 
2. 13時から「放射能のない福島を返せ!原発のない福島を求める県民集会」が同会場で開かれました。地元平和フォーラム各団体と全国から参加された仲間が集い、約1700人の人たちで会場を埋めました。
最初に主催者を代表して福島県平和フォーラムの竹中実行委員会委員長が挨拶「3月11日に発生した東日本大震災と津波による被害も大きかったが、3月12日から14日にかけて福島第1原子力発電所の1号機、3号機の爆発で空気中に放射能がまき散らされたことで、福島の多くの県民が不安と苦しみのなかでいます。

私が住む南相馬市では、現在も3万人近い人たちが故郷を離れざるを得なくなっています。原発事故による被害の大きさを身をもって証明しました。私たちは原発のない福島を取り戻すことが責任です。」と、訴えました。 原水禁からは川野代表から連帯のあいさつを行いました。「私は長崎県出身で被爆者として原水禁運動に参加しています。東日本大震災は天災ですが、3月12日から14日に発生した福島第1原発事故は人災です。二度とこのような事故を発生させないためにも全国の原発に反対しよう」と訴えました。

現状報告では、最初に高濃度の放射能が検出したため計画的避難を余儀なくされている飯舘村から青年が代表して「村の高校生が、将来子どもを産めることができるのか、と悩んでいる」と、そして放射能汚染の責任を問い、風化させないために「負けねえど飯舘」を結成して活動していると決意を述べ、次に浪江町が警戒区域になったため南相馬市に避難している教師の方から「避難で通勤が遠くになり、妻が失業、子どもが今までの学校に通えず大変になっている。原発事故も被害者は私たちで終わらせてほしい」と訴えました。

母親の立場から郡山市出身の女性が「中学生の娘を東京の親戚に預けている。しかし、避難できない子どもも多いのが現実で、健康被害が出ないか心配」だと報告されました。

集会の最後に福島県平和フォーラム事務局長から提案、自治体での「脱原発」への意見書・決議の採択にとりくみ、県独自に「福島県民の命を守りふるさとを取り戻すための署名」運動を行い、来年の3月11日の1周年に大規模な取り組みを企画することを報告されました。
集会アピール採択のあと、駅前をデモ行進しました。


3. デモ終了後、ホテル辰巳屋の大ホールで、「原水禁世界大会・福島大会」が15時過ぎから開催されました。
主催者を代表して、川野大会実行委員長(原水禁議長)は、福島第1原発事故により放射能被害が拡がっている。これまで核と人間は共存できないとして原発に反対してきた。しかし、今回の事故により私たちの力が及ばなかったのが残念だ。広島・長崎の被爆者は66年間闘ってきた、これからは福島でも始まる。ノーモア・ヒロシマ・ナガサキ、そして「フクシマ」の声を大きく上げていこうと参加者に訴えました。
福島県実行委員会を代表して竹中実行委員長は、今回の原発事故で警戒区域外の40キロ離れた飯舘村では、米や野菜など作物が生産出来ない状態に追い込まれている。目に見えない被曝をこれ以上作ってはならない。と厳しい状況を報告されました。

そのあと、ノンフィクション作家の鎌田慧さんが、「原発体制を越えて、人間の未来へ」と題して基調講演を行いました。その中で「この福島に東京電力が原子力発電所を作ったが、この背景には中央政府が東北へ原発立地を押し付けたことにある。
東北地方の各地から送電線が東京に向かって架けられている。その東京に着く頃には電力の半分近くが消耗している。これまで原子力保安院は、原発推進のため模範答弁を繰り返してきた。今回発覚した玄海原発再稼働のやらせメールのカラクリはこの保安院の意向が反映している。

危険な原発を建設するため多額の開発費が投入され、原発が作られた所は反対運動が負けた場所で、原発には巨大な利権が出来ている。しかし、原発の危険性と何万年もかかる廃棄物処理を考えていくと原発にかかるコストは膨大だ。 3.11事故後の被曝労働者の追跡調査が放置されている。被曝隠しが当たり前、見て見ぬふりしている。世界は、ドイツをはじめ脱原発に転換してきている。今回9月・19日開催の5万人集会に参加してほしいと呼びかけました。

連帯アピールを、長崎平和運動センターの奥村さん、ビキニ環礁で被曝した元第5福竜丸乗組員の大石さん、チェルノブイリ原発事故の被災者アントン・ブドビチェンさんから受けました。各人から放射能が人体に及ぼす危険性について具体的に指摘し、内部被曝でガンの発症率が高くなり、子どもたちの生命が脅かされているので健康管理を国の責任で行うべきなどと訴えました。

最後に福島大会アピールを採択して終了しました。会場には850人を超える参加者で大成功に終わりました。


4.南相馬市フィールドワークに参加して
(1)8月1日午前7時45分に福島駅西口に集合し、バス2台に分乗して南相馬市へ向かいました。バスの車窓からみる福島市内は、普段通りの状況です。ただ放射能汚染を恐れてか観光客の姿は少ないと思いました。バスは、田園風景のなかを坂道を登っていきます。

放棄された田畑、無人の民家、スタンド、農協等

福島市から飯舘村に入ったところから田んぼには稲も植えられず、雑草が生え放題のまま放置されています。事故さえなければ稲の青い穂が風に揺られており、秋には稲穂が垂れていたのでしょう。
民家には人姿も見えず、スタンドも農協も介護センターも閉鎖されたままで放射線汚染が村の生活を一変させたのだと心に重くのしかかってきました。

 


南相馬市風景 病院、検問所、閉鎖ドライブイン等

峠を越えて南相馬市に入り道の駅でトイレ休憩。
目の前に見える市民病院は、長期入院は止められ救急で緊急入院された人も、72時間以内に別の病院へ移送されるとのことです。そのあと第1原発から20キロ境界線の道路上に警察車両を止めて検問所を設置して24時間監視している場所を見学。検問所の手前にドライブインがありますが原発事故以来閉鎖したままです。





津波の被害 穴の開いた家 折れた電柱

 

南相馬市
家が無くなり、防風林だけが残る。
震災後に一つだけ鯉のぼりが上げられたとしたら悲しみ以外のなにものでもない。
こいのぼりとはウィキペディア
   


(2)そのあと、「ゆめはあと」で南相馬市の桜井市長と面会しました。
桜井市長市長は、合併6年目でこんなに有名になるとは思ってもいませんでした。市長になって1年と少したった時に地震がきました。南相馬市民71,000人が北は北海道から南は沖縄まで最大規模6万人が避難していました。現在も3万人が市から離れています。

私は、18才のころから原水禁6.9運動に参加してきました。そして、南相馬市に建設されようとした産業廃棄物処分場工場建設反対の闘いを展開しました。開発事業者から損害賠償を訴えられ裁判に負けましたが、いちばん苦しむのが市民です。この処分場は20キロ圏内の警戒区域で現在工事はストップしています。

いま学校で放射能の問題について学習しています。これまで政府は、原発は安全・安心だと繰り返し言ってきました。しかし今回の第1原発事故は、木っ端みじんに安全神話を吹っ飛ばしました。市内の小中学生の3分の2は市外に出て学んでいます。市内の高校生も同様に市内を出て他の高校で学んでいます。

いま中学3年生は進路の問題で悩んでいます。来年市内の高校が新入生を募集するのか分からないので不安になっています。いまの状況では不透明です。また、警戒区域30キロ圏内は保障の対象、30キロ圏外は対象外となっており市民に不安と不満が高まっています。今回の事故の責任は東電にあり、政府にあります。原子力発電は、本当に安価な電力なのか? この事故を見れば明らかだと思います。

今年の東電の株主総会で南相馬市は、脱原発の修正案に賛成しました。しかし福島県は脱原発と言いながら、修正案に賛成しませんでした。

双葉町は3月12日に避難勧告が出ました。南相馬市は、水素爆発後の3月17日に避難勧告がやっと出されたのです。東電も3月20日になって初めて事故報告に来ました。私は、3月15日の夜から市独自でバスをチャーターして市民を市外に避難させました。街は3月12日以降の爆発で、原爆が落ちたような状態に陥りました。

地震の後の津波では700人余りの方が流されました。今回の東日本大震災と福島第1原発事故は、世界史的な問題であると考えています。
南相馬市として被爆者援護法の拡大適用で原発事故被曝手帳の発行と、南相馬市が脱原発宣言する前に市民の目線で、この取り組みをすすめていきたい。と報告されました。

短時間の面会でしたが、市長の南相馬市を何とかしたいという気持ちが伝わる内容でした。                            


希望者のみがバスから降りて放射線を測定

(3)飯舘村のドライブインで放射線を測る
面会後、バスに乗って飯舘村を越えて福島市内に向かいました。途中、峠のドライブインで放射線の測定をしたところ6.5毎時マイクロシーベルトから6.8毎時マイクロシーベルト(注)の数値を示しました。これは、通常の10倍の数値となり、そのため飯舘村の住民は30キロを超えているのに避難を余儀なくされています。のどかな農村なのに放射線が高いために住めなくなっているのです。
(注)1年間の推定積算量は、概ね57mSvとなる。

(4)まとめ
今回の原水禁世界大会・福島大会は、3月11日に発生した東日本大震災と津波、そして福島第1原発事故という世界を巻き込んだ重大事故で福島県をはじめ多くの所で放射線被害が拡がっています。しかし、菅内閣は、事故の当初に1号機から3号機までメルトダウンしていたにもかかわらず、これをひた隠しして1ヶ月後に発表するという事故隠しをしていたのです。そのため、原発周辺の住民の避難が遅れ放射能被曝にさらされたのです。

このような情勢のもとで7月31日に福島市で開催されたことは、大変有意義なことであり、全ての原発を廃炉させるための闘いが始まります。
また、南相馬市のフィールドワークも放射能の恐ろしさを実感するものでした。

通信・垣沼

参考 福島第一原子力発電所事故経緯

連帯ユニオン議員ネット