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大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会は3月25日から27日にかけて『慶良間諸島・強制集団死検証の旅』学習会を沖縄県の現地で行いました。参加したのは関西の人権団体、労働組合などの有志14名で、連帯ユニオンからは近畿地本・垣沼執行委員長とK執行委員の2名が参加しました。K執行委員からレポートが届きましたので掲載します。

フェリーざまみ
クイーンざまみⅢ

那覇~座間味港を結ぶ船舶

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座間味島案内地図
 


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『(大江・岩波裁判)慶良間諸島・強制集団死検証の旅』
                         レポート:K執行委員


3月25日午前10時に大阪伊丹空港を出発。約2時間後に那覇空港に到着、フェリー出発の時間に間に合わせるため、あわててタクシーに飛び乗り泊港へ直行。座間味に到着後すぐにホテルにチェックインした。
その夜は沖縄戦体験者の方々との交流会が催された。地元の料理に舌鼓をうちながら体験者の一人である中村和夫さんに1945年3月25からの米軍上陸時の話を聞いた。当時、学校や軍からの訓示で、ひたすら「玉砕」を教え込まれていた島民の中に「生きたい」という感情が芽生えてきた過程と、そういう考えができたからこそ見えたきた「犠牲になるのはいつも民衆」という戦争の真実の話や、時代背景として本土の人から受けた差別の話など、学校の教科書では知ることができない話に、ただ驚嘆した。
中村さんから聞いた話や地元の方との話の中で驚いたのは、米軍よりもむしろ日本軍や日本政府に対する恨みのほうが〝深い〟ということだ。少なくとも私はそういう印象を受けた。ホテル近くの飲食店の店主(沖縄本島出身)に話を聞いても「米軍基地が現在でも残ったままの沖縄本島の人と座間味島の人では少し米軍に対する感情が違うようだ」とのことだった。

26日は朝早くから座間味島を出て阿嘉島(あかしま)へ渡り、『沖縄戦66年 3・26阿嘉島合同慰霊祭』に出席。阿嘉島では朝鮮半島から徴用された朝鮮人軍夫が非業の死を遂げている。「集団自決」に関しては以下のような出来事があった。
 
(以下、栗原佳子さんの記事より引用)米軍上陸後の1945年3月26日、阿嘉島でも攻撃が激しさを増すなか、日本軍に指示されるなどした住民400人以上が「シジヤマ(スギヤマ)」山中に移動していた。今は民宿を経営する新城幸一さん(75)は緊迫した場面を思い起こす。「もしあのとき、1か所でも先に手榴弾を爆発させていたら、みんな『早く、早く』とやりよったはずです」と話す。この時、一人の少年が逃げ出し、木によじ登りはじめた。母親がひきづり降ろそうと泣き叫ぶ。日本軍の将校は「俺は切り込みに行く。帰らなかったら覚悟を」と告げたという。
兼島菊江さん(83)は「自分だけ生き残るのは怖い。早く死ななければならんという思いでした」と振り返る。母と祖母、妹2人と親戚2家族あわせて15人あまりで輪を作った。日本兵からもらった手榴弾が3個あった。17歳だった防衛隊員の弟も来ていた。「自決」しきれなかった場合に備えて剣をか携えていた。突然、祖母(当時73)が「防衛隊に行っている息子(二男)の顔を見てからでないと死ねない」と、目隠しを取って立ち上がった。これを機に「死」へと走り出していた集団心理に少しずつほころびが入っていく。翌日、疲労困憊した住民たちのところに戦隊長との伝令役を務める防衛隊員が駆け込んできた。「いよいよか?」と思われたが、意外にも伝えられたのは「自決中止」だった。「戦況が変わったんです。ただ、戦隊長は『今は待たせておけ』と言ったらしいですね」と当時その場で〝その時〟を待っていた垣花武一さん(78)は言う。
阿嘉島は山がちで勾配がきつく、米軍の水陸両用車も斜面を登り切れずにいた。小規模な戦闘はあったものの、米軍は退却していった。「占領しても役に立たないと思ったのでしょう」と武一さん。米軍が深追いしなかったうえ、追い詰められた住民が直接米軍と遭遇する場面がなかったことも幸いした。(引用終わり)
 
阿嘉島でシジヤマなどを見学した後、座間味島に戻った。この日の夜は宮平春子さんの話を聞くため、夕食を早くすませ近くの公民館に出かけた。
 
宮平春子さんの話
大江・岩波訴訟で決定的な証言をした宮平春子さん(助役の宮里盛秀さんの実妹)に1945年3月23日から始まった、座間味島への米軍上陸当時の生々しい惨劇を聞いた。
それは、現在を平和に生きている私たちにとって想像を絶する話で、軍や政府の命令とはいえ、自分の家族を、ある者はカミソリ、ある者は猫いらず、ある者は手榴弾等を使って、自らの手で殺さなければならなかった悲痛な思い、艦砲射撃や空襲によりパニックに陥った中、それでも自分だったら軍の教えの通り、死という選択をしたのだろうかと考えさせられる話だった。
やはり、宮平春子さんをはじめ、大江・岩波訴訟で証言をした人は、「生きる」という選択をし、それだからこそこの地獄の様な惨劇の目撃者となったのである。終了後ホテルに戻り団一同で交流会を行った。

27日(最終日)は座間味島と慶良間島の戦跡調査で各ガマ(防空壕に利用していた洞穴や洞窟)や集団自決跡地を視察。今も残る銃弾跡や遺留品に心が痛んだ。
 
ヌンドゥールガマ
座間味島北部、阿佐のユヒナの海岸周辺。干潮でなければ行くのは難しい“ヌンドゥールガマ”がある。しかし、米軍上陸時には水を求めて満潮でも夜に肩まで海水につかりながらユヒナまで往復したという。
渡嘉敷島や久米島の島影を望むこの小さな入江にも米艦船の姿が絶える日はなかったという。崖をよじ登り、山道を選んで食料を探しに行った人たちもおり、その中で崖から落ちて亡くなる人、岩場やサンゴで大けがをした人もいたという。 ここにも多い時には300名が入っており、食料はない、排せつもガマの中で行われ、赤ちゃんが泣いたら口々に「殺せ」と言われる程、極限の状態だったという。 座間味と山を隔てた阿佐の集落にまで「忠魂碑へ」という伝令は届かなかった。
 
3月23日の空襲では民家に被害はなかったのだ。
しかし、おののいた住民たちは山裾の家族壕を捨て、ヌンドゥールガマ等での避難生活に入った。
 
投降は許されなかった
当時15歳だった平田文雄さんの家族5人は、様々な壕を転々とした。
阿佐の区長であった父・長太郎さんが、「梅澤隊長が住民にどうしろともいわず、逃げ回っている」と批判的な事を言ったとして、日本兵が「殺す」と付け回っていたからだった。
阿佐の住人、上原武造さんは4月半ばヌンドゥールガマにやってきた。
その頃には既に阿佐の集落は住民の収容所となっていた。
早くに捕虜となっていた武蔵さんは、米軍の許可を得て「アメリカは人を殺さない。食べ物もたくさんある」と呼び掛けにきた。ところが阿真に戻る前、阿佐の自宅に戻って休んでいるところを、つけてきた日本兵にスパイの疑いで切り殺された。
捕虜となって日本軍からの情報が嘘と分かり、投降を呼びかけるとスパイ容疑として日本軍兵士に殺されるというケースは多々起きていたという。
また、食料を求めて日本軍兵士が住民を虐殺したケースも頻発したという。
そして、日本軍はその後に及んでも住民が米軍に投降するのを阻止する為、住民に恐怖を与え、捕まった住民が惨殺されたという噂を流し続けた。
 
1945年6月8日、島の「最高指揮官」だった梅澤氏が山を降り、米軍に投降した。 しかも傍らには女性がいた。しかも、その女性は「慰安婦」として島につれてこられた朝鮮人女性のリーダー格だった人だった。ジープに乗せられた梅澤氏に、住民や朝鮮人軍夫が「お前がいたから日本は負けたんだ」と罵声を浴びせていた。
 
梅澤氏は投降した後、阿嘉島の戦隊にも降伏勧告を行っている。
住民の投降を許さなかった駐留日本軍のトップの梅澤氏の身の処し方を、島の人々が冷ややかに見ている事も確かだという。
多数の住民が「集団自決」し、大勢の部下が斬り込みを命じられて戦死した。なのに、自分は生き「恥」をさらし、なおも今、「責任はなかった」と裁判までおこしている。

島民の木訥さと人なつっこい笑顔、そしてエメラルドブルーの海と美しい自然に囲まれた沖縄の離島に、平和な現代に生きる自分が想像もつかない惨事があったのかと思うと、何かいたたまれない気持ちになった。

今回、『(大江・岩波裁判)慶良間諸島・強制集団死検証の旅』に参加させていただき、ありがとうございました。集団自決跡地やガマを実際に目の当たりにして、私も感慨深いものがありました。また、現地の方々とふれあいながら沖縄戦当時の話を直接聞くことで、大江・岩波裁判原告らが主張することに、いかに嘘偽りが多いか?ということ、そして「事実・真実」をちゃんと社会に知らせていかなければいけない、と思いました。これから、予定されている大江・岩波裁判最高裁判決へ向けて、私たち支援連絡会もさらに一丸となって闘わなくてはなりません。

 

大江岩波裁判とは?
沖縄戦初期、慶良間諸島の座間味島と渡嘉敷島で起きた集団自決をめぐり、作家の大江健三郎と岩波書店が名誉棄損で訴えられた事件
沖縄戦の集団自決 について、岩波書店発行の書物『沖縄ノート』『太平洋戦争』『沖縄問題二十年』で書いた内容が、当時の座間味島 での日本軍指揮官梅澤裕(うめざわゆたか)および渡嘉敷島 での指揮官赤松嘉次(あかまつよしつぐ)が住民に自決を強いたと記述し名誉を傷つけたとして、梅澤裕および赤松秀一(赤松の弟)が、名誉毀損による損害賠償 、出版差し止め、謝罪広告の掲載を求めて訴訟を起こした。
一審判決では、集団自決に対する旧日本軍 の関与を認めた一方、それが隊長の命令であったかの判断は避けたが、「大江の記述には合理的な根拠があり、本件各書籍の発行時に大江健三郎等は(命令をしたことを)真実と信じる相当の理由があったと言える」として、名誉棄損の成立を否定し、原告の請求を棄却した。
原告側は判決を不服として控訴したが、大阪高裁も2008年10月31日 に地裁判決を支持して控訴を棄却し、原告側はただちに最高裁 に上告した。

原告2名
1.梅澤裕…当時、座間味島に駐屯した陸軍海上挺進第1戦隊の戦隊長
2.赤松秀一…当時、渡嘉敷島に駐屯した海上挺進第3戦隊の戦隊長赤松嘉次氏の弟
「集団自決を命じたなどと虚偽の事実を著作に記され、名誉を傷つけられた」として、慰謝料の請求、出版の差し止め、謝罪広告の掲載を求めた。

2007年7月27日、口頭弁論

原告側 被告側
皆本義博(海上挺進第3戦隊中隊長) 宮城晴美
(沖縄女性史家「母の遺したもの」著者)
知念朝睦(同副官)

  「母の遺したもの」(2000年)

宮城晴美著
全部で4部構成。
1部…母・宮城初枝の手記
2部…集団自決-惨劇の光景
3部…海上特攻の秘密基地となって
4部…母・初枝の遺言-生き残ったものの苦悩
梅澤氏ら原告側の主張の根拠にもされ、その梅澤氏の主張がもとで「教科書問題」へと発展。
 
教科書問題等で渦中の人物が原告側ではなく、被告大江・岩波書店側に立った。
晴美さんの母、初枝さんは1980年12月中旬に那覇市のホテルで梅澤氏に面会。
1945年3月25日の夜、助役と梅澤氏とのやり取りについての詳細を話したが、梅澤氏はそのことを覚えていなかった。
梅澤氏が証言する「決して自決するでない」との言い分は、記憶にない事を自分が都合のいい様に、あたかも鮮明に記憶しているかのように記述したものであると主張。
梅澤氏は、確かに3月25日のやり取りの中で、自決用の手榴弾は助役に手渡さなかった。
しかし「今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい」と言っただけで、住民が自決せざるを得ないことを承知の上で自決をやめさせようとはせず、ただ軍の貴重な武器である弾薬を梅澤氏自ら渡す事はしなかった。
もし、当時の島のトップだった梅澤氏が証言するとおり「決して自決するでない」死なずに投降しなさいと言っていれば、みんな従っていると思う。と証言。
それまでに「集団自決を指示したのは村の助役」との主張を展開していた原告側の主張を明確に否定。
助役ら村の幹部は、あらかじめ座間味島の日本軍から、米軍上陸時には玉砕するよう指示されていた。
だからこそ、助役らは梅澤氏に自決用の弾薬をもらいに行き、梅澤氏も自決をやめさせようとはしなかった。3月25日午後11時に住民を、自決の為忠魂碑前に集まる様に伝えて回った時も、住民は軍命だと受け止めていた。
座間味村の助役兼兵事主任兼防衛体調だった宮里(戦後、宮村に改性)盛秀氏は、25日夜に父・盛永氏らに対し「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている。間違いなく上陸になる。国の命令だから、潔く一緒に自決しましょう。敵の手に捕らわれるより自決した方がいい。今夜11:30に忠魂碑の前に集合することになっている」と告げている。
すなわち、助役であった盛秀氏は、あらかじめ座間味島の日本軍(梅澤氏)に、米軍上陸時には住民は自決するよう命令されていたのである。

                 連帯ユニオン近畿地方本部・執行委員K


 
阿嘉島
 
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座間味港 
 
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 民家塀銃弾跡
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 強制収容の跡
 平和の塔
 
ヌンドゥールガマ
 
高良家(国指定重要文化財)
 
忠魂碑


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