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2010年11月11日
  近畿地方本部    
委員長 垣沼陽輔  

第47回憲法理念の実現をめざす護憲大会に参加して

2010年11月6~8日の3日間、宮崎市で「韓国併合100年・安保50年東アジアに新たな平和と友好を」第47回憲法理念の実現をめざす護憲大会が開かれ、全国から約2,500名が結集し、連帯ユニオンからは近畿地本・垣沼執行委員長が参加しました。
 
1. 11月6日は、13時から宮崎市サンホテルフェニックス国際会議場で開催され、オープニングでは、日南市から桑水流家の3姉弟による「民謡」(シャンシャン馬道中唄・正調刈干切唄・日向木挽唄など)を披露。つぎに、延岡市出身の双子デュオ#SORA(ソラ)によるコンサートを堪能しました。

桑水流家 双子デュオ#SORA
桑水流家の3姉弟による「民謡」
双子デュオ#SORA

 
 
開会総会では、実行員会を代表して平和フォーラムの江橋代表から、「いま東アジアは政治的に混乱している。中国、朝鮮民主主義人民共和国、ロシアとの関係、さらにアメリカとの関係も混沌としている。このような中で、非核・平和・友好の東アジアの関係をどう作っていくのか、この大会でメッセージを発信したい。また、国内的には政権交代が実現した、我々が希望を託した政策が実行されていない。多くの意見を結集して政府に要請していきたい」と述べました。


 

社民党福島党首
社民党福島党首

宮崎県実行委員会を代表して小沼実行委員長は、県内で発生した口蹄疫への各県からの支援のお礼と12月に実施されようとしている日米共同軍事演習を反対する取り組みについて報告、今回の護憲大会を機にさらに県内で平和運動を強化していきたいと挨拶を行いました。
連帯あいさつでは、連合中央の山本副事務局長が、「社会の底割れに歯止めを掛ける11春闘の勝利を」、民主党川内衆議院議員と社民党福島党首から反戦・平和の取り組みと沖縄県知事選で伊波さんの必勝を訴えました。

 


社民党福島党首
平和フォーラム
藤本事務局長

2. 基調提案では、平和フォーラム藤本事務局長から、「昨年の大会では、鳩山新政権の下で憲法理念が実現する可能性が期待されたが、普天間基地問題で辺野古に回帰する日米共同声明を受け入れてしまった。新たな防衛では専守防衛を有効でなく、自衛隊増強で抑止力とする考え方である。尖閣諸島での中国漁船問題で中国側の反感をあおり、自衛隊と米軍の必要性を正当化しようとする危険な動きがある。尖閣諸島問題で日米安保回帰にしてはならない。アジアで日本が自ら安全保障を議論すべきだ。武力で平和は作れないし、軍事力で人間の安全保障を確立することに無理がある。私たちは、武力に頼らない平和・人権・環境を拡大促進することの中に安全保障が出来ると考えている。政治の中で憲法理念を活かし、その実現に向け取り組んでいくよう求めていく」と基調提案を行いました。

3. 第2部の講演とシンポジウム
「韓国併合100年・安保50年、東アジアに新たな平和と友好を」をテーマに討論しました。最初に江橋代表から問題提起を行い、パネラーの民主党川内衆議院議員、ピースデボの湯浅代表、社民党服部衆議院議員の各氏から報告を行いました。

パネラーの方々
民主党川内衆議院議員
ピースデボの湯浅代表
社民党服部衆議院議員


川内氏は「現在それぞれの国同士が、理解しきっていない状況の中で平和と信頼は作れない。各国が交流しあい連帯感をつくり、それぞれが情報を公開することが必要だ。
ロシア大統領の国後島訪問や尖閣諸島事件を振り返ると情報公開が不十分になっている。それぞれ起こった出来事への共有化が図られていない。また、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)では、国内議論が進んでいないし整備されていないのに突然、菅首相の所信表明で出てきた。このまま進めば、第1次産業が壊滅的な被害となる。」
服部氏は、「南半球は、ほとんど非核地帯になっている。中央アジアでも非核地帯を作るための努力がなされている。東アジアでも中国にたいして核を絶対使用しないことを確認させ、政府は核軍縮に向けて動くことが大事ではないのか」、湯浅氏は、「軍事力によらない対話と協調による安全保障を目指し、日本政府が憲法9条を基準にして非軍事による安全保障の構想を提案すべきである。」と、それぞれの立場から意見表明されました。
平和フォーラムへの要望では、「軍事費を減らしていく世界的キャンペーンをやってほしい」「歴史認識・戦後補償の問題を日本として明らかにすべきである」「日米合意を破棄させるために沖縄知事選で勝利してほしい」などがあり、市民レベルで出来ること、情報公開を通じて軍事拡大をさせないこと、政策協議を日本政府に求めていくことがフォーラムとしての決意表明もされました。
 
 
4. フィールドワーク

取り組み説明

(1) 2日目の11月7日は、宮崎市を中心に太平洋戦争時の戦跡巡りを行いました。
9時前に宮崎観光ホテルを出発。最初に綾町にある照葉樹林文化館・酒泉の杜を見学し、綾の照葉樹林プロジェクト運営事務局からこの取り組みについて説明を受けました。
「照葉樹林」は、ヒマラヤ南麓のネパールから、東南アジアの北部、中国雲南省、長江下流を経て、日本に達する東アジアの温暖帯に沿って分布し、国内では九州南部から北は岩手県、秋田県まで達しています。しかし、農地転換や開発のため伐採が進み照葉樹林の面積が各国とも減少しており、日本でも、まとまった照葉樹林は少なく、綾の照葉樹林は面積が最大で生態系の豊かさや自然景観に秀でた貴重な森となっています。

綾の吊り橋

ここには、世界一と言われる「綾の吊り橋」がありますが、本年11月から吊り橋の掛け替え工事が始まり、残念ながら渡ることは出来ませんでした。

 その他写真「

 

 

 


八紘一宇の塔(2) 昼食を、酒泉の社で食べ、宮崎市内の県立平和台公園に向いました。この公園内にひときわ目立ち、巨大な石造りの「八紘一宇の塔」が立っています。
この塔は、1940年(昭和15年)、日本が中国を侵攻していた日中戦争の最中、佐賀出身の相川勝六宮崎県知事の提唱で、天皇の世紀“紀元二千六百年”を記念して建てられたものです。
塔のデザインは、大分県出身の彫刻家日名子実三が担当、相川の構想で神主がお祓いに使う御幣の形に見えるようにつくり、高さが36.4mで、当時は日本一高い建築物でした。

 その他写真「

 

 

八紘一宇の塔台座
台座拡大

塔の台座に、日本国内はもちろん、植民地であった台湾・朝鮮・傀儡国満州など、海外の日本人団体も石を献上し、日本軍が占領していた中国大陸からは、略奪したと思われる石も使用されていのです。戦前、「八紘一宇」は、「世界を天皇が支配する一つの国にする」という意味で、明治以降の日本は、欧米に後れをとるななどと領土拡張の野心に燃え、日清、日露戦争に勝利し、「満州」に支配を広げ、「朝鮮」を日本に併合、さらには日中全面戦争を日起こしたのです。1941年12月「八紘一宇の実現」と称して資源確保、植民地拡大を目指し、米・英・仏・オランダの支配する東南アジアに侵攻して、これらの国を相手に太平洋戦争に突入しました。このように「八紘一宇の塔」は、国民を戦争へ一致結束させる精神的支柱となったのです。1945年8月に日本は戦争に敗れ、連合軍が日本本土へ進駐したあと石塔に掛けられてあった「八紘一宇」の石版と足下に立つ4神象のうち荒御魂(武神像)などが侵略と軍国主義のシンボルであるとして撤去されたのです。
塔の背後には「紀元二千六百年」の文字が見られますが、その下の大理石には「大日本国勢記」が書いてありましたが、今は剥がされた跡が白く残っています。そこには、「大日本帝国は神国なり・・・・皇威の及ぶところ、北は国竜江畔より・・・」と書かれ、日本の領土の範囲や面積が細かく記されていました。戦後すぐに撤去されたままで、復元されていません。これは、塔の本当の目的を隠す結果となっています。
「八紘一宇」の塔は、戦後いち早く「平和の塔」に名称を変えています。戦争の悲惨さを忘れさせ、戦争を推進した指導者の責任追及をそらすためです。1960年代には、宮崎県は観光メッカとして名をはせました。県も観光誘致に力をいれ正式に「県立平和台公園」と決定し整備を進めました。1964年東京オリンピック開催の平和ムードの中、平和台公園は、国内聖火リレーの太平洋側の起点となりました。その記念プレートが石塔の土台に埋め込まれています。県は、これに乗じて撤去していた「武神像」を復元します。そしてオリンピック後に「八紘一宇」の文字も復活させたのです。さらに、県は1971年に塔の「由来碑」が建てられ、このときに石塔が「友好諸国からよせられた切石」とか「八紘一宇の文字が永遠の平和を祈念し」と記述、事実を歪曲したのです。
この石塔について、「平和の塔」の史実を考える会が調査を行い、当時の日本軍などが中国大陸から献石した中で特徴的なものが幾つか見られるので、石のルーツを知るため韓国や中国の内モンゴル、北京、南京、上海を訪ねました。そのほとんどが、略奪に近いかたちで日本に持ち込まれたと考えられました。
フィールドワークに参加した人たちで、これが本当に「平和の塔」なのか大きな疑問を持ちました。
この後、休憩も兼ねて洗濯岩で有名な「堀切峠」にある「道の駅」で一休みしました。
 
 
(3) つぎに宮崎空港横にある「宮崎海軍航空隊・特攻隊戦死者の慰霊塔」を見学しました。宮崎海軍航空隊・特攻隊戦死者の慰霊塔
 
  戦前は、「赤江飛行場」として鹿児島県の鹿屋、知覧とともに日本海軍の南方進出の前線基地として建設。1943年(昭和18年)に赤江地区の住民も総動員させられて作られたのです。当時を偲ぶ建物として「掩体壕」(えんたいごう)が滑走路の西側に残っています。
慰霊塔にある石版に、ここから沖縄に向けて飛び立った特攻隊の名前179名も刻まれています。赤江飛行場から1945年3月21日から5月25日まで10破に渡って特攻隊「遺言石碑碑文」が出撃しています。米軍は、4月の沖縄本島上陸前1945年3月18日に赤江飛行場を爆撃しています。
 
掩体壕掩体壕は、宮崎空港の西約1キロ離れた団地の一角にあり、大型ドーム型の建造物です。かつて、戦闘機を隠す格納庫でした。現在は、民間に払い下げられ物置やガレージ、倉庫として使用されています。厚いコンクリートと網の目になっている鉄筋が入っているため、戦後65年経った今でもひび割れもせず堂々として建っています。
私たちが見学をしていると持ち主の方が出てこられて、「なぜ壊さないのですか」と尋ねたら、「余りにも頑丈にできており解体費用が掛かりすぎるので、そのまま使用している」とのことでした。コンクリートも品質管理をきっちりして、しっかり建てれば何十年も持つことを証明しています。終了後、宮崎交通のバスで、各宿泊地のホテルへ向かいました。

5. 閉会総会
3日目の11月8日、宮崎観光ホテルで閉会集会を行いました。
特別提起として、沖縄平和センター山城事務局長から、普天間基地即時返還、辺野古など新基地建設反対、沖縄知事選支援の訴えをおこない。新潟県平和運動センター高野事務局長から、朝鮮学園への高校無料化適用について支援の要請を。東京大空襲訴訟原告団城森副団長から、「空襲被害者等援護法」制定の取り組みを。宮崎県実行委員会村松さんから宮崎における日米共同訓練反対の取り組みについて、提起しました。
大会のまとめを藤本事務局長から行い、遠藤三郎賞表彰を2団体にして、大会アッピールを参加者全体で確認し、2011年は山形で開催することを提案して終了しました。

以 上

大会アピール

 

世界規模の不況と「格差と貧困」の広がりに加えて、口蹄疫問題で深刻な被害を受けながら、その復興に懸命にとりくんでいる宮崎の地に私たちは集い、憲法理念を実現する第47回大会(護憲大会)を行いました。
本年は「韓国併合」を強制してから100年、新日米安全保障条約(60年安保)締結から50年という、日本の戦前・戦後の歴史を象徴するできごとの節目の 年でした。東アジア重視と日米関係見直しの姿勢を示して誕生した新政権は、韓国の人々の意に反して行った植民地支配に対して反省とお詫びを表明する「菅首 相談話」を発表しました。これを具体化するために、日本政府に「過去の清算」や朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との国交正常化に向けたとりくみをさせま しょう。また、アジア蔑視の差別的な歴史観と貧困な人権感覚を払拭し、多民族・多文化共生社会をめざしましょう。そのためにも朝鮮学園に対して一刻も早く 高校無償化を適用させましょう。差別や人権侵害をなくすための制度確立に向けて国際人権条約を完全批准しましょう。子どもの権利条約に基づく教育・福祉を 実現しましょう。
60年安保締結から50年、東西冷戦や朝鮮戦争、ベトナム戦争などの東アジア情勢は大きく変貌し、グローバル化がすすむなか で、相互依存ぬきに国の存立はなしえません。しかし、普天間問題で迷走した新政権は、従来の日米安保の関係を継続・強化しようとしています。新安防懇報告 に基づく防衛大綱や武器輸出原則や非核三原則の見直しの動きを許してはなりません。また、中国やロシアなど周辺諸国との対立を煽る動きを許してはなりませ ん。私たちは、「武力で平和はつくれない」という立場で、9条をいかして平和を築きましょう。日本の安全保障にとって、在日米軍基地の機能がどのようなも のであるのか、徹底して検証しましょう。日本と東北アジアの非核化・軍縮をすすめましょう。海外から自衛隊を撤退させましょう。米軍再編や原子力空母母港 化をやめさせ、普天間基地返還をはじめ沖縄の基地を縮小・撤去しましょう。憲法にもとづく平和基本法を制定しましょう。
時代は世界的な転換期で す。変革に対する壁も大きく立ちふさがっていますが、戦争放棄と非武装・平和主義、基本的人権の尊重、主権在民を三大原則とした日本国憲法の理念に基づく とりくみを広げ、粘り強く実現させていきましょう。「人間の安全保障」を指針に、東アジアや世界、日本各地に運動の大きなネットワークを築いていきましょ う。

2010年11月8日

韓国併合100年・安保50年 東アジアに新たな平和と友好を
憲法理念の実現をめざす第47回大会

 

連帯ユニオン議員ネット