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憲法理念の実現をめざす第46回大会に参加して

1.

本年で46回目の「憲法理念の実現をめざす第46回大会」(第46回護憲大会)は、本年11月1~3日までの3日間、長野市内の「ホクト文化ホール」をメイン会場に開催された。会場は、大ホールだけでは入りきれず中ホールも使い、総数2800人余りが参加した。

「善光寺木遺り保存会」の木遣り唄(きやりうた)のオープニングの後、主催者を代表して江橋崇実行委員長(フォーラム平和・人権・環境共同代表)が、政権交代により「政治の中で憲法理念を実現していく可能性が開かれてきた」と指摘した。また、来賓の福島みずほ社民党党首は、改憲手続法が来年5月に施行されることに触れ、「社民党が連立政権の一員である限り憲法調査会は動かさない」とあいさつした。

全体総会


引き続いて「対話と協調の世界を求め、市民政治の新時代に」を主題にしたシンポジウムが開催され、パネリストに福島みずほ社民党代表、平岡秀夫民主党衆議院議員がなり、江橋実行委員長がコーディネータとして討論を行った。
平岡さんは、民主党が掲げる「政策決定の政府一元化」を説明し、市民団体などの運動は「政策決定の上で大変重要。新しいしくみの中でしっかり受け止める」と発言、福島さんは、労働者派遣法の抜本改正や在日米軍基地再編の見直しなど、民主、社民、国民の与党3党合意を実現していくには「現場の運動と国会の政治をどうつなげるていくかが大事だ」と指摘した。
 

2.

第2日目の11月2日は、フィールドワーク「松代大本営地下壕見学と真田城下町の歴史散策ツァー」に参加した。長野駅東口よりバスに乗車。車内は補助席も使ってほぼ満席だった。

地下壕へ行く途中

(1) 松代大本営地下壕は、太平洋戦争末期、「国体護持」を目的に、本土決戦最後の拠点として極秘のうちに大本営や政府各省など国家の中枢機能を長野市松代に移転する計画の下に、掘られた地下施設で、1944年11月11日午前11時に最初の発破がかけられ、翌1945年8月15日の終戦の日まで、約9ヶ月間に当時のお金で2億円の巨費とおよそ延べ300万人の住民及び朝鮮人の人々が労働者として強制的に動員され1日3交替という突貫工事が進められたのである。
地下壕の前に立てられた説明

しかし、戦争末期という中での工事のため、食料事情も悪く、工法も旧式な人海作戦を強いられたため、多くの犠牲者を出したと言われている。この地下壕は、日本の敗戦により実際には大本営として使用されなかったが、まさに「戦争の狂気」が生み出した地下壕といえる。工事を請け負った鹿島組(現・鹿島)、西松組(現・西松建設)は、工事の主な労働力として推定約6千人の朝鮮人を動員した。
「松代大本営追悼碑を守る会」は、工事で犠牲となった朝鮮人の霊を弔い、戦前の加害・侵略を反省、恒久平和を祈念する慰霊碑を戦後50年となる1995年8月、坑道入口前広場に建立した。
地下壕入り口と追悼碑

松代地下壕は、舞鶴山(現・気象庁精密地震観測室)を中心に皆神山、象山の3カ所に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は10キロメートル余りに及んでいる。全行程の75%の時点で終戦となり工事は中止された。1989年(平成元年)に、太平洋戦争の遺跡として多くの人々にこの存在を知ってもらうことを目的に整備し、一般公開したのである。

説明看板

ロッド(中央の茶色棒)

壕内
 

(2) 私たちは、最初に松代象山地下壕を見学した。見学できるのは、総延長6キロのごく一部片道500メートルの地下壕を歩いた。入口周辺には、民家も建ち並んでおり、看板などがなければ分からないところである。坑内は、人が立って歩けるほど大きな地下トンネルである。所々に上から落盤しないよう天井を支える鉄製の枠あった。
陸軍がこの場所を選んだのは、連合軍が攻めてくる太平洋岸から遠く、周りが山で谷も多く防禦(ぼうぎょ)に適し、本州の真中で東京にも比較的近いことから長野県が選ばれ、陸軍井田少佐が県内各地を調査し6月に松代に決定した。
① B29の10トン爆弾にも耐えれる固い岩盤があること。
② 山の配置もよく、とくに奥の舞鶴山は急降下爆撃もしにくい地形で、上空の気流も複雑。
③ 周辺は農村地帯で、工事に必要な労働力も集められる。
④ 信越線に近く長野電鉄も通っていて資材搬入の便も良く、必要な敷地も確保できる。
⑤ いざという時には、小さいが長野飛行場も使える。(離発着をしやすくするため朝鮮人を使って拡張工事を開始)
⑥ 城下町で文化的品格もあり、山(皆神山)や川(神田川)、地名(西条、東条、豊栄、清野)も良い。
⑦ 人情も素朴で、秘密も漏れにくい。


(3) 舞鶴山には、大本営と仮皇居が建設されるため、付近の住民109戸(124世帯)が、1945年4月に強制(買収)立ち退きを余儀なくされた。この仮皇居跡の地下壕と外の堅牢なコンクリート建物は現在も使用され、戦後直ぐの1947年から気象庁が使用し、トンネル内には精密地震観測室が設置されている。
窓から室内を見ると、天皇が座ったであろう御座所は、職員の宿泊所として使っている。 戦後64年経ても、当時の技術でしっかり造った建物はびくともしないということである。

(4) 昼食は、松代城跡近くのレストランで「栗おこわ弁当」を食べ、その後松代城跡を散策した。ここは、真田家十万石の城下町で、真田家は関ヶ原の戦で父昌幸と次男信繁(幸村)が豊臣方(西軍)へ、長男信幸が徳川方(東軍)へと別れて戦うこととなり、昌幸と信繁はその後11年間和歌山県九度山に幽閉され、1614年大阪の陣で信繁は討死したため、信幸が真田家を継ぎ、明治の廃藩置県による藩消滅まで250年間続いたのである。

(5) 午後は、松代公民館で塩入さん(松代大本営追悼碑を守る会長)と原山さん(同会事務局長)から、松代大本営追悼碑を建立に至る経過を聞いた。
① 塩入会長から、この建立運動には20年間の運動が追悼碑建立につながったこと。発起人は松代の歯科医の先生だった。この建立には、大韓民国民団と朝鮮総聯が最初から協力してくれたこと。そのため追悼碑の銘文には双方の気持ちが伝わる内容にしたこと。 朝鮮人を徴用した建設会社にもカンパをお願いしたこと。建立後、毎年8月10日に慰霊祭を碑の前で行っていることが報告された。
② 原山事務局長からは、松代大本営壕跡地の保存することで、民主主義の徹底と憲法を守ることの重要性を確認し、大本営建設の歴史認識をしっかりつかみ、2010年「日韓併合100周年」という歴史的な時代に検証すること。また、大本営建設に朝鮮人強制連行と植民地支配の歴史を検証しなけらばならない。松代大本営建設は、「天皇制護持」のために日本人や朝鮮人の命を軽んじていたこと。などが報告された。

3.

3日目は、「ホクト文化ホール」中ホールで閉会総会が開催された。
特別報告として、沖縄平和運動センターから「普天間基地の即時閉鎖と辺野古新基地建設の断念を求めて」、福井県平和センターから「エネルギー政策転換を求めて」、長野県護憲連合から「長野県内の護憲運動について」、松本地区労会議から「未組織・非正規労働者の労働相談現場から」を行い。大会まとめを藤本実行委員会事務局長から総括報告を行った。最後に、第46回護憲大会アピールを提案し、閉会あいさつを山口わか子実行委員会副委員長が行い終了した。

近畿地方本部執行委員長 垣沼陽輔

以 上

松代象山地下壕

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