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本年5月21日、刑事司法に裁判員制度が導入された。この制度は小泉政権下の04年、十分な審議もせず(衆議院3週間、参議院1週間)、小泉氏お得意の数の論理で国会を通過させてしまった法律だ。くじで当たった裁判員は出廷義務や守秘義務が課せられ、被告人の運命、被害者の心情、司法の理念などを置き去りにし、制度だけを先行導入した小泉元首相独特の手法である。制度の問題点について永嶋靖久弁護士の寄稿を掲載する。

■  裁判員制度は、誰のために、何のためにあるのか

真犯人を発見し厳罰を科すだけなら、裁判はいらない。警察と監獄に任せておけばいい。真犯人ではないものが間
違って処罰されないようにする、もし真犯人だったら適正な刑罰を決める。これが、刑事裁判の目的だろう(どちらもとても難しい。そもそも適正な刑罰とは何だろうか)。

5月21日から実施された裁判員制度は、刑事裁判の目的実現につながるのか。裁判員制度でえん罪は減るのか。適正な刑罰が実現するのか。
えん罪を防ぐために一番大切なのは、圧倒的に強大な権力を持って捜査を行い刑罰を科そうとする国家に対して、可能な限り被疑者・被告人の権利を保障するということだ。裁判員制度のもとでは、迅速な裁判、わかりやすい裁判が目指されるという。しかし、裁判員制度が目指す迅速さ、わかりやすさは、裁判員のためであって、被告人のためではない(裁判員法15条)。裁判員の負担を軽減するために、裁判の公開を制限したり、被告人の主張を制限するように裁判手続が変えられた。これは、えん罪を防ぐ、という刑事裁判の目的から見れば本末転倒ではないだろうか。
色々な世論調査を見る限り、裁判員になりたくない人の方が多いようだ。「裁判員制度への理解」が進めば、参加したいという人が増えるのだろうか。「人を裁きたくない」「裁判は法律の専門家に任せて、自分は参加したくない」という人がいるのは当然だろう。それを間違っているとは言えないと思う。日本国憲法は国民主権を標榜している(実際にどうなのか、ということはここでは問わない)。「主権者としての主権行使」の第一は、投票だ。日本国憲法の下では、有権者が投票所に行かなくても(理由があろうとなかろうと)罰則はない。しかし、裁判員が裁判所に行かないと正当な理由がない限り10万円以下の過料だ。裁判員になることは義務なのか権利なのか。これではどう考えても権利ではないだろう。

1980年代以降、先進資本主義国では、どこでも刑務所人口が爆発的に増大した。日本でも、この30年間で、刑事施設の1日平均収容人員は倍以上に増えた。刑罰や監獄の持つ社会的な意味が大きく変わりつつあるのではないか。日本の刑事裁判の変化もそのような大きな流れの中で捉える必要があると思う。


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