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日朝友好なにわの翼訪朝団に参加して 

全日本建設運輸連帯労働組合

近畿地方本部     
書記長 垣沼 陽輔  

 日朝友好なにわの翼訪朝団は、本年4月29日に関西空港を発ち北京で一泊して、翌30日から5月5日まで朝鮮民主主義人民共和国(以下、共和国)を訪問した。 有元さん(日朝国交正常化の早期実現を求める市民連帯・大阪共同代表)を団長に7人が参加した。

 


①.4月30日北京空港を14時(北京時間)に発ち、平壌空港に16時10分過ぎに到着した。


 

 

 

 

 

 
空港内で入国手続きを済ませ、朝鮮対外文化連絡協会(以下、対文協)が準備したマイクロバスに乗車、平壌市内に向かった。私たちの担当は、金明日職員(通訳兼ガイド)、金昌龍課長(担当責任者)の2名でした。 市内では、ちょうど仕事を終えて帰る時間帯に遭遇、バスや地下鉄、徒歩で自宅へ向かう人々が見えました。車内で明日以降に見学する場所を車窓から紹介されました。
 
 
市内の印象は、派手なネオンが無く、新緑の時期に重なり緑も映え、落ち着いた街並みでした。また高層アパートも計画的に配置され、日本のように密集せず適度な間隔で建っているので圧迫感もない感じでした。24年前に訪問した白ロシア共和国の首都ミンスクを思い浮かべました。
車中で、共和国はアメリカとの戦争状態が1953年7月休戦以降も続いており、4月の人工衛星打ち上げをめぐり日米韓との緊張状態が高まっているので、平壌市民の反日感情と日本人に対する視線が厳しく、市民にカメラを向ける場合は、必ず許可を取ってから撮るように説明を受けました。また、鉄道などは軍事物資も輸送してるので写さないこと、軍人も写さないことを注意されました。私は、共和国とアメリカとの緊張状態は、私たちの目に見えないところで続いていると感じました。 
平壌高麗ホテルで窓から見える街並みは壮観でした。夜は、ホテル内のレストランで対文協主催の歓迎夕食会が開かれ友好的に懇談しました。


 

②.5月1日は、朝食を済ませてから9時10分にホテルを出発。万景台にある金日成主席の生家を訪問し、日本語ガイドの案内で両親の暮らしぶりや主席の生い立ちについて説明を受けました。生家を訪問する市民の表情を見ていると、主席が尊敬されていることが伝わってきました。メーデーとも重なっていたので、多くの市民が見学に訪れていました。

 

 

 

 

マイクロバスで移動して大城山公園で開催されているメーデー祝賀会に参加。南門前ではコンサートが行われており民謡が流れると、観ていた婦人たちが音楽に合わせて踊ってました。

 

  

南門の裏側にある広場では、綱引き大会が催されていたので、代表団から2人がこの綱引きに参加。なかなか勝負が決まらず4回も綱を引いたので終わった時はぐったりでした。  また、公園内の芝生の上では、家族や会社毎にグループで焼き肉や弁当を広げて団らんしていました。
昼食は、近くのホテルのレストランで石焼きビビンバや冷麺などを食べました。一旦ホテルへ戻り休憩してから朝鮮労働党50周年記念創設塔を見学、95年に塔は完成しましたが金日成主席はこれを見ずに亡くなっています。

この記念塔には、労働者と農民、インテリなど各階層人民が団結して主体的に朝鮮統一を実現していく姿勢を表す銅板モニュメントが飾られてあり荘厳な感じでした。

ホテルへ戻り正装に着替えて、5月1日メーデーを祝う「祝砲夜会」(花火大会)に参加するためマイクロバスで出発。途中、共和国の担当者が便乗し見物会場まで案内されました。一番見やすい場所で18時から約2時間待機して午後8時から30分間、連続して花火が打ち上げられました。花火は、平壌で最大のホテルとなる建設途中の柳京ホテルから打ち上げられました。立ち放しだったので足は棒のようになりました。
340メートルもある巨大なホテルの壁を花火が滝のように流れ、左右に花火が次々と打上られ夜空に大輪が鮮やかに開いていました。 この「祝砲夜会」には、造船所や製鉄所などで働く労働者代表1万5千人も金正日総書記の招待で夕食を共にして花火を見物したとガイドから紹介されました。また、会場周辺には平壌市民も各地域毎に指定された場所で見学。10万人以上の人たちが参集していたと思います。
終了後、会場からホテルに戻るまで約1時間以上かかり午後9時30分は回っていました。それからにホテルのレストランで遅い夕食を済ませ寝ました。

③.5月2日は、午前中ホテルの会議室で戦前日本へ強制連行された2人の男性と懇談しました。
(1) 金龍福(キムリョンボク)さん81才(1928年6月・平安南道生まれ)
① 金さんは、1943年10月に昭和電工が作業員を募集していたのでこれに応募した。そのとき昭和電工社は、「未成年を対象に技術を学びながら工場で働ける」と宣伝していた。
自分は、65人の人たちと工場の作業員としてちゃんと働ける希望をもって日本の富山県の西宮という所へ行った。工場の2階の会議室で入社式が開催されると思って待機していたら、憲兵が入ってきて「徴用令にもとづき働くことになるから、これに違反した場合は軍法会議にかけられる」ここに居る者は「徴用令で働くこと」を厳命された。
当時、私は15才だった。この「徴用令」には年令制限がなかった。これを聞かされたときショックだった。その日から「徴用マーク」の作業服を着せられた。
② 65人は、一つの中隊のようなもので、中隊長は将校が就任しパクという人物だった。これを2つの小隊に分けられ小隊長は退役軍人がなった。入居した部屋は2階にあり、監視がしっかり付いていた。部屋は狭く数人しか入れないのに8人も詰め込まれた。
毎朝正座をさせられ、天照大神を唱和させられた。1ヶ月間軍事訓練と実習をしたが、動作が鈍くなるとこん棒で殴られた。
③ 昭和電工では、精錬工場に連れて行かれ、釜の熱さで地獄のような状態だった。アルミ鉱石を溶鉱炉で溶かし、型枠に流し込み、これを運び出す作業で1日12~18時間働かされた。アルミ精錬は、1000度近くまで上がるので裸で働いた。
鉱石が入っていた袋を加工して前掛けを作り熱から体を守った、木の板を加工して下駄を作り使った。食事は、粗末で豆ガラやコーリャン、タクワンを食べていた。この栄養もない食事で多くの労働者が倒れたり災害事故が発生して障害者も出た。
工場の中では、日本人で耳が不自由な労働者も働いていたが、彼は日本人だったので配給もあり給料も出ていた。しかし、私たちには一銭も支給されなかった。
④ 「徴用令」は、当時の大日本帝国が、朝鮮人を自由に勝手気ままに強制的に働かせることが出来る人権無視の極悪法だ、また私たち朝鮮人の魂まで奪うようなことをしてきた。朝鮮人に皇民化を強制したのである。
そのため、毎朝起きるやいなや天照大神の唱和と天皇にお礼を述べることをやらされていた。工場の中では、朝鮮語で会話も禁止され、手紙も書けなかった。作業場で朝鮮語で話をすればメッタ打ちにされた。
作業場では、まともに名前で呼ばれることもなかった。「この半島人」「鮮人」とか言われた。
これじゃダメだと思い対抗措置を考え、ある日、抗議のためストライキをして工場から逃げ出した。これに対して監督者は、ひどい報復を加えてきた。
戦争末期に入り若い日本の労働者が不足するため、次々に朝鮮人が「徴用」で強制連行されてきた。条件は、私たちと一緒だった。500人くらい働いていた。
最後に、日本は過去の行為を謝罪し、強制連行したものへ保障をすべきである。

(2) 金勇傑作(キムヨンゴル)さん84才(1925年・平安南道生まれ)
① 私は、京南道入江西郡で生まれた。そこで父は小作人をしていたが7才の頃に海辺近くで移り住んだ。日本人が東洋托殖会社を設立し、干潟を利用して海産物を採って加工食品を作っていた。この近くに鉄鉱石鉱山があり父はそこで働いていた。
私は、16才のときに父を頼って移住し、私も鉱山で働いた。ここには、労働者保護施設もなく、坑内で落盤事故が発生し、多くの労働者が下敷きになって亡くなったり大ケガをした。父も坑内でケガをして腰を痛め立っていることも出来なくなった。
そのため父は働くこともできず、私が家族の生活を支えていた。
20才の時に、部長に呼ばれて事務所に行ったら、部長から「軍に徴兵されたので準備をするように」と命令された。私は、この鉱山で働き父の代わりに8人の家族を支えているので、何とか1年間延ばしてほしいと嘆願したが、逆に命令を聞かないのなら監獄へ入れる、父を連れて行くと言った。
家に戻ってから、家族を説得したが両親はお金が入らなくなってしまう、どうすれば良いか嘆いた。逃げ出すことが出来なかった。小さな弟たちが、私にすがって行かないでと泣いていたことが悲しく辛かった。このようにして軍に徴用されたのである。日本政府は、いまだに「強制連行」はしていないと言っているが、私自身の経験からしても明らかに「強制連行」である。
② 1944年5月に、珍海にある海軍訓練所に入所して新兵訓練を受けた。この訓練は地獄だった。担当の将校が、「ここは朝鮮人に大和魂を注入する所だ」と発言していた。銃の替わりに竹で作った摸擬銃で撃つ訓練を行った。(武器が不足してなかった) 大和魂を体に植え付けることは、天皇に忠臣させることであった。少しでも軍事教練で遅れたり、朝鮮語で会話をしたりすればひどい目にあった。
一人の青年は、制裁を加えられるときに下半身を裸にされ、こん棒で殴られたため下半身マヒになって実家に帰されたこともあった。
制裁は、拷問に近い体罰であった。正座させられた足の間に角材を挟まれたり、ビンタを繰り返しされたりした。
一人の青年が、余りにお腹が空いたので将校の食べ残しを食べている所を見つかった時には、残飯の鍋に顔を突っ込まれて殴るなどの暴行を加えられため、翌日起きてこないので、部屋から引きづり出されてまた、暴行されていた。その後、訓練所の外に運び出されて家に帰らされた。
このように制裁の後まともに治療も受けられなく、家に帰らされても障害が残り働くことも出来なかったのでは、と考える。
③ 3ヶ月の訓練の後、夜中に列車と船に乗せられ着いたところが下関だった。そこから列車に乗せられ九州鹿児島出水市まで行った。
ここには、海軍飛行場があった。朝鮮人で配属されたのは私一人だった。
格納庫、トーチカ、敵の上陸を防ぐ土木工事を行った。ここでも訓練所といっしょで、新米の新兵だったからあらゆる仕事をさせられた。上官の部屋掃除、便所掃除もした。仕事には耐えられたが、朝鮮人差別には耐えられなかった。国を奪われて人権も無いやり方に憤りを覚える。
④ 1945年9月に、散らばっていた朝鮮人兵士を1カ所に集められ、将校から「戦争が終わったので、もうどこへでも好きに行って良い」と言われて、お金も無かったが、とにかく下関までやっとの思いで到着した。(5日間くらいはかかったと思う)  このとき、列車に乗るのも決死の覚悟だった。一日も早く帰りたかったが、釜山まで行く船がなかったため、密航船(50人乗り)に200人も乗船して下関港を出港したが、途中でエンジンが故障して止まったため漂流。そこへ台風が来て嵐に巻き込まれ座礁して沈没した。この時に老女や子供たちも乗っていたがほとんどの人が流され死んでいった。私は漂流して、小さな島にたどり着き助かった。50人くらいしか助からなかった。
戦後直ぐの頃、玄界灘を渡って国に帰る朝鮮人への援助がなかったので、祖国に帰ることもなく無くなった人が沢山いる。浮島丸事件では船が機雷にふれたため沈没し3,000人以上も死亡している。
⑤ 日本政府は、いまだに「強制連行」を認めようとしていない。朝鮮人を840万人も「強制連行」しており、200万人の従軍慰安婦のうち100万人が亡くなっている。これに対する保障を何故しないのか。日本政府が、歴史教科書を改ざんし、侵略戦争の反省もせず、再び共和国を敵国化し、4月の衛星打ち上げに対しても反共和国姿勢を強くして煽っている。
朝鮮と日本は100年の宿敵であり、ちゃんと賠償をすべきである。
日本政府の姿勢に強く抗議したい。
 
(3) 強制連行された2人のお話を聞いていて涙する団員もいました。日本が朝鮮半島を植民地支配して、朝鮮人としての人権を無視して行った蛮行の数々を聞いて私たち訪問団は、皆さんからお聞きしたことを胸に刻み、共和国との友好関係を築くため頑張りたいと決意を述べ参加者全員で記念写真を撮り終わった。

(4) 昼食後、大洞江(テドンガン)畔に建立されたチュチェ思想塔(主体)を見学。この日は天候も悪く小雨と風が強く吹いていました。この塔は、高さ170メートル、幅20メートルあり、1982年に建立されました。平壌の中心にある金日成広場と向かい合う対岸にそびえ立ち、世界でもっとも高い石塔です。中にはエレベータがあり最上階まで上がると展望台から市内が一望できます。この日は、雲が低くたれ込め靄っていました。
その後、2002年4月から稼働している大洞江ビール工場(テドンガンビール)を見学。一日7万リットルを製造し、原料の大麦とホップは国内で生産し、大洞江の水を軟水化して使用している。
人民に旨いビールを供給出来るよう、人民に奉仕する立場で製造することが徹底されているとガイドから紹介されました。工場の外にある試飲コーナーで新しく製造されたビールをジョッキーに注いで呑みました。旨かったです。
夕食は、ホテルで対文協の人たちとも懇談しながら食べ、2次会は地下のカラオケに行き、その後3次会で最上階の回転ラウンジで飲み、楽しい一夜を過ごすことが出来ました。

④.5月3日は、ホテルを午前8時に出発。一路、開城市へ約3時間のバス旅行。
(1) 平壌市内を抜けると一面田園と畑の景色だった、開城までは自動車専用道路が通っており信号もない直線に近いコンクリート舗装道路でした。1時間半くらい走ったところにドライブインがあり一旦そこでトイレ休憩し、南に向けて出発し、開城市に近づく途中で検問所が数カ所ありました。休戦ラインが近く56年経っても緊張した状態にあることを示しています。

直接、板門店まで直行し非武装ライン2キロ手前の検問所で入場許可を受けて、38度線上にある南北会談場に向かいました。
非武装地帯は南北で2キロづつ4キロあり、南側は人の進入が禁止されているので荒れ地になっていますが、北側は田んぼも畑も耕作されており、ちょうど田植えの時期で苗床も作っていました。北側には、休戦ライン手前に朝鮮戦争当時の休戦交渉会議場が残されており、机には調印当時の共和国旗、国連軍旗が掲げられています。建物の中には当時の状況を示す写真などが掲示してありました。
休戦提案は、1951年勃発後、直ぐに国連軍側(米軍)から出され開城周辺を中心に戦闘が続いている中で1953年7月27日に休戦協定が締結されたのです。
検問所から休戦会談場までのコンクリート障壁通路には、南側からの侵攻を防ぐためのコンクリート塊が乗せてあり、いざと言うときにはこれを落として車両の進路を妨害できるようになっています。
北側から観る休戦ライン上にある青い色の南北会談場には、共和国軍の兵士が休戦ライン上に立って勝手に南側に行かないようしていました。会談場会議室は、南側が座るイスにも往来できるし、非常に和やかな雰囲気で見学しました。南側のように誓約書も書かなくて良いし、共和国軍の兵士は悠然と構えていました。
見学後、開城市内へ移動し、李王朝時代の古民家を改装したレストランで宮廷料理を食べました。鶏のお腹に餅米と豆類を一緒に入れ炊いた料理を2人で分けましたが量が多くて食べきれませんでした。
昼食後、バスで南側が非武装ラインに建てたコンクリート障壁を見学。畑の中の道を揺れながら1時間近く走り、急坂を一気に上がった所に監視所がありました。
ここから双眼鏡で覗くと南側の迷彩色の監視所も見え、コンクリート障壁について監視所員から説明を受けました。この障壁は、所々に鉄の門があり、ここから何時でも戦車や装甲車など米軍車両が非武装地帯を突き抜けて北側に侵攻できるようになおり、障壁内は空洞になっていて武器も隠すことも可能だそうです。このコンクリート障壁で南北分断を固定化することになり、南北統一には要らないものだと強調されていました。 
マイクロバスで平壌市内に帰る途中、市の入口にある南北統一を祈念する6.15共同宣言と高麗共和国建設の10箇条が書かれてあるゲートやレリーフを見学。共和国は、1国家・1民族・2政府・2制度の南北統一国家の方針を確立していると説明がありました。共和国が朝鮮半島統一に向けたプロセスを具体的に提起しているのです。
ホテルに着いたのが午後7時過ぎで、夕食はホテルのレストランへ直行して食べました。

⑤.5月4日は、午前中は朝鮮革命博物館を見学。ここは、金日成主席が日本軍と戦うためパルチザンを組織し抗日戦争を指導した時代から1945年8月に日本が敗戦後、朝鮮統一を実現するため各地にオルグを派遣して戦った戦跡や共和国を建国した歴史を写真や当時の新聞記事、植民地時代に日本政府が朝鮮に押しつけた不平等な条約文書などが掲載されていました。

私たちは、1時間という短い時間だったの多くは見学できませんでしたが、じっくり見学するには1週間かかるそうです。
その後、人民大学習堂を見学。平壌の中心部に位置しており、人民のインテリ化を促進する中心基地であり、勤労者への通信総合大学、全人民学習の殿堂です。
1982年4月に開館し、延べ面積は10万㎡あり、朝鮮様式のコンクリート建築物です。蔵書能力は3000万冊、一日の収容能力は1万2,000人余りとなっています。
私たちが訪問したときも、英会話講義や専門課程のスクーリングが開催されていました。自習室では、学生やサラリーマン、兵士など多彩な人たちが独習していました。共和国の人たちは勤勉だなと感じたところです。

午後は、平壌市内にあるチャンギョン小学校を訪問しました。この小学校を日本人が訪れたのは初めてだそうです。女性校長のホウチュンスンさんは、最高人民会議代議員(日本であれば国会議員に相当)でもあります。
学校は1945年に創立され、学校の編成が何回か変わったが現在は、小学校として1年生から4年生までの生徒が学んでいます。卒業生には、俳優になった人や音楽家も巣立っていることと、金日成主席が3回も小学校を評価されたことが名誉であると説明を受けた後、各教室を見学しました。
学校は半ドンなので午後は、クラブ活動や自習を行っているそうです。
最初に1年生の教室を見学。子供たちは、はきはきと先生のお話を聞いて朝鮮語を一字一字書き写す勉強をしていました。日本の一年生のように落ち着きがない子供はいませんでした。次に卓球クラブの活動を見学。ここでは、団長自らラケットを握って小学生相手にゲームに挑みましたが完敗でした。リレーが上手で動体視力がしっかりしていると思いました。 次に、少女バレイを見学。白鳥の舞を20人近くの子供たちが、前転有り、バク転あり、器械体操のように上に乗って空中で演技するなど感動的でした。

 

そのあと、コーラスと踊りとチャンゴを見学。これも子供たちの美声と踊りに感動しました。最後に本を見ながら文章を組み立てる学習をしている上級生の教室を見学しました。
生徒は、27クラスが4つの学年に分かれ1200人の児童が勉強しています。1クラスは40人以下で、教育水準の向上のため教師の質を高めること、子供たちの成長に合わせた学習机を準備すること、先輩たちの成長した姿も見て自分たちの目標にしていくこと、クラブ活動に力を入れていること、大学への進学率も高いと報告されていました。
先生は40人で、男性より女性が多いそうです。
終了後、凱旋門を見学して記念写真と買い物をしました。
最後に、朝鮮対外文化連絡協会を表敬訪問し、副委員長の洪善玉(ホン・ソノク)さんに面会しました。ホン副委員長と1時間近く和やかに会談しました。相互に、今後も日朝の友好のため手を結びあっていくことが確認されました。 この日が最後の平壌の夜となったので、ホテル近くのレストランで訪問団主催の夕食会が催されました。
夕食会には、黄虎男局長が出席され、私たちの訪問が有意義なものになったこと、今後も「日朝友好なにわの翼訪朝団」を共和国に飛ばしていただくことを祈念していると挨拶されました。
有元団長からは、対文連の金課長はじめ金通訳に滞在中、お世話になったお礼をのべ、日本に帰ってからも引き続き日朝国交回復のため努力したいと決意を述べ、ビールで乾杯後、楽しい食事会となりました。2次会は、隣にあるカラオケバーで日朝友好を深めました。途中で停電になりましたが復旧後は、アカペラで合唱し盛り上がりました。

⑥.5月5日は、平壌から北京経由で日本に帰る日です。
朝食を早く済ませ7時過ぎにはホテルを出発。気温が低いせいか霧が出ていました。
空港に到着後、出国手続きを済ませ9時過ぎの便で出発。空港には、黄局長も見送りに来ていました。出国ゲートを挟んで私たちの姿が見えなくなるまで手を振って別れを惜しみました。
12時前には北京空港に到着。入国手続きを済ませて第2ターミナルビルから第3ターミナルビルに移動するのにバスに乗務して移動しました。向こうが見えないくらい広い空港でした。移動後、みんなで昼食を食べても時間が余るのでチェックインを済ませてから各自自由行動。私は、空港内のマッサージルームでマッサージを1時間くらいして移動用シャトル駅に行ったら、すでに団員の人たちが待っていて、私がどこに行ってしまったのか心配して、館内放送もしたようです。ご迷惑をおかけしました。
北京時間16時05分発の中国国際航空便で一路、関西空港へ出発。20時10分には関西空港に到着しました。事故もなく無事帰国しました。

⑦.共和国を訪問して感じたこと
4月30日~5月5日まで6日間の共和国訪問は、日本で見聞きする内容とは違うことが分かりました。
1つは、日本政府による経済制裁の影響で、共和国を訪問する在日同胞が北京経由でしか入国出来なくなり経済的な負担が増えましたが、それでも祖国への想いを断ち切ることはできません。私たちが訪問したときにも多くの在日同胞が共和国を訪問し、親族との再会や墓参をしています。経済的負担も大きい共和国への経済制裁を早期に解除させ、在日同胞が直接祖国を訪問できるよう運動を強化しなければならないと思いました。
2つは、日本で経済制裁によって物資が不足しているのではと思いましたが、決定的に物資が不足してるようには見えませんでした。今回は、停電もなく高麗ホテルでは快適に過ごせたことです。
市内には、日本のようにコンビニやスーパーがあちこちで営業していませんが、アパートの下にはショッピングセンター(スーパーのようなもの)が営業し商品も並んでいました。ホテル前のショッピングアーケードは、改修中で内装もきれいに塗り直されりオープン間近になっていました。
3つは、人工衛星発射をめぐって米韓日政府は、共和国に圧力をかけ中止させようとしましたが、米韓日の目論見は失敗し、逆に6カ国協議から共和国が脱退すると宣言され、開城市に設けられた経済特区での朝韓共同事業も李明博(イ・ミヨンバク)政権が6.15共同宣言を否定し共和国と敵対する政策を進めていることに抗議し、閉鎖を宣言したことで朝鮮半島統一化が停滞していることです。
このように共和国に対する米韓日による敵視政策に一切怯むことなく毅然とした姿勢で朝鮮半島の統一を願い、今日の国難を人民の団結で乗り越えてく姿勢に感銘を覚えました。その一つが5月1日夜に開催された「祝砲夜会」の花火大会です。
こここに参加する市民が、地域ごとに集団で整然と指定された場所に移動する姿を見たとき団結力と集団行動力のすごさを垣間見ました。日本で、同じ規模のイベント(7月開催の天神祭)を開催するとしても警察と警備員を何万人も配置して治安対策をしなければなりません。市民が個々バラバラに移動するので規制しないと統制がとれません。
4つは、56年経った現在も、共和国と国連軍(アメリカ)との間で休戦協定のままであり、この休戦協定から平和条約締結を実現することで朝鮮半島の非核化を促進させる一歩だと思いますがアメリカ側は、一向に平和協定締結への道を開こうとしていません。
日本政府に共和国敵対政策を改めさせ、朝鮮総聯はじめ関係する諸団体への不当な弾圧を中止させると同時に、国交正常化に向けた取り組みが必要です。
そのためにも、私たちが日本で朝鮮半島の自主的平和統一に向けた運動に取り組むことです。
6日間の共和国訪問で、私たちに同行していただいた対文協の金課長と金職員に厚く御礼を申し上げ、一日も早く朝鮮半島の統一が実現することを祈念して報告とします。

以 上


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