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春闘アンケートはがき

関西地区生コン支部は黎明期から一貫して労働者のために闘ってきた。権力弾圧にも屈せず、労働者の権益を守り中小企業の利益を守る産業政策運動を展開してきた。その闘いで生コン産業は危機を乗り越えてきた。ここ頁では、関西地区生コン支部の足跡を辿り、歴史的事実が語る、その大衆的労働運動の功を学ぶ。

 1973~76年
1973年の石油ショック以降、物不足と物価高が生活を直撃した。その一方、独占資本は価格操作で暴利をむさぼり、労働者・庶民に価格転嫁がのしかかっていた。セメントも例外ではない。生産―出荷をストップして価格つり上げを行い、生コン価格も連動して急騰。公正取引委員会から警告される程であった。

このような状況下、73春闘では14社を相手に生コン支部として、初の集団交渉が闘われた。産業別統一要求を徹底的に追求し、先行低額妥結をしていた同盟(企業内組合)の回答を上回る賃上げ2万5千円で妥結。週休二日制への見直し等制度要求も実現・前進した。以降、75年まで賃上げ・一時金のいずれにおいても同盟回答を上回り、生コン支部主導型春闘の幕開けとなった。
生コン支部は、空前の経済危機と言われたなかで組織的に大きく前進した。大半の労働組合は不景気になると「会社あっての組合」「業績悪化時に賃上げ要求でもない」という姿勢にたやすく落ち込んでしまう。そのような労働組合は、資本側からの「雇用をとるか、賃上げをとるか」という攻撃の前に膝を折り、これ以降右翼的労戦統一の流れに乗りこんでいった。
生コン支部の組織的前進を可能にしたのは「使用者概念の拡大」と「背景資本への追及」を通じて獲得された多くの成果であった。これは、「企業がつぶれたら相手側がいなくなる、誰か相手にしなくてはならないということからたぐっていけば、セメントメーカーに行き着く」とするもので、机上ではなく、実践の中で生まれた戦術であった。
しかし、業界そのものを淘汰してでも生き延びようとするセメントメーカーの攻撃に対抗するため、新たな闘う方針が必要とされた。そして、「中小企業と労働者が共通の敵である独占資本と共同で対決し、業界の自立によって中小企業の安定と労働者の生活向上を実現する路線」が提起される。
この路線のもと、74年に中小専業8社協定が結ばれ、不当労働行為の根絶と協力共同、さらに週休二日制について確認。75年には、今日の生コン支部方針の基本となる産業政策が提起された。
個別企業と業界全体に対する運動の発展にともない、日々雇用問題がクローアズアップされるようになった。一企業では経営基盤が弱いことや、経営者が姿をくらますなどした場合に雇用保障することは困難であることから、76年に連帯雇用保障を要求。これは、企業から解雇され生活困窮していた組合員の生活建て直しと闘争を支えるために当時の生コン支部の推薦する人(争議分会の仲間)を日々雇用させるというものだった。76春闘ではこれをさらに発展させ、生コン支部の組合員を優先的に雇用する内容の優先雇用について27社との間で統一協定化に成功。直ちに田中分会(のちの朝日分会)が結成された。
生コン支部は業界全体を襲った危機のなかで、広く中小企業の自立という業界全体の力で雇用保障を実現する方向を選択。今日の産業政策運動につながる大きな組織的前進をみた。

 1990~94年
バブル崩壊後、日本経済は長期不況に陥り、生コン業界では大阪・兵庫だけで40社を超える破倒産が続出。需要減と過当競争による原価割れ、ゼネコン・商社による買い叩き、セメント資本の拡販競争による市場混乱で業界は「崖っぷち」の様相を呈していた。
このような状況下、東大阪生コン協組は労組と協調して値戻しを試みたが、「協組の大同団結を阻害する一部セメントメーカー・同グループによる協組脱退などの混乱持ち込み」「販売店による約束不履行」が原因で92年に事実上の休会に追い込まれた。
このような状況下、大阪アメニティパーク(OAP)建設計画がもちあがり、25万リューベもの生コン需要が生まれた。東協組の休会、あいつぐ連鎖的な倒産、バブル崩壊による生コン需要の低迷のなかでの大規模開発事業は生コン業界活性化に繋がるはずだった。 ところが、一社がこの計画の生コン需要を独り占めしようと企てた。一社はかねてから生コン業界の過当競争状態を解決するには自然淘汰していく姿勢を表明してきた。すなわち、資本力の弱い中小企業に競争を挑み、最後に笑うのは大資本だけというわけだ。生コン支部は大阪市に対し、この件について中小企業振興政策上問題があること等申し入れを行い、一社はついに市内協との間で一部をゆだね、一部を賦課金とすることで決着した。これをきっかけに、生コン業界内の見方は、労働組合と敵対するより協調した方がよい結果がでるという流れに変わっていった。
92年12月、中小企業連合会、業界団体と生コン支部の三者による懇親会が開かれ、生コン支部は産業再建の具体策を提案。業者からも大いに賛意が表明され、業界再建活動が軌道にのり始めた。 
93年には、神戸・神明・東・北・市内の各協組と支部との間で業界再建に向けて継続的な話し合いが開催され、94年には各協組の理事会において労使一体で業界再建に取り組むことを正式に決定。阪南・市内・北・東の四つの協組の統合に向けて広域協組準備会を発足。そのなかに適正生産委員会等各種委員会をつくり、ここには最初からアウト(協組員外社)の有力企業や労組を入れて共同で作業に取り組むことが確認された。企業は危機感を強め、業界再建に必死にならざるをえなくなったのだ。
一方、90春闘以来4年続きで連帯主導春闘が勝利。経営危機を口実にして賃金・労働条件の切り下げに転嫁せんと口をそろえる経営者に対し、危機の原因を明らかにして、値戻し・業界再建の提案を行う生コン支部の闘いの前に経営者は同調し、あるいは追い詰められていった。 94年7月、業界再建へ組織の枠を超えて、歴史的な労組共闘「生コン産業政策協議会(生コン産労・全港湾大阪支部・連帯関生支部)」が結成された。業界の労働組合に対する態度が敵対から歩み寄りへと変化した背景には、経済状況が影響していたばかりでなく、春闘勝利や労働側の団結強化によって、労使の力関係が有利に変化したことも影響している。

くさり No718 より


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