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アスベスト被害の救済と根絶をめざす尼崎集会
 6月28日、尼崎小田公民館でアスベスト被害の救済と根絶をめざして集会が開かれた。
この集会は、「クボタショック」から3年を経てアスベスト被害者が増大していることを明らかにし救済を迅速にすることで、アスベスト使用の全面禁止とすべての被害者に対する公平・公正な救済を実現に向けて、国と企業によるアスベスト問題の幕引きを許さない活動を強化するために開催された。 
「クボタショック」とは、3年前の2005年6月29日に、クボタが79名に及ぶ自社関連アスベスト被害の死亡労働者数を明らかにし、30日には3名が周辺住民被害者としてクボタから見舞金を受け取ったことで、全国的にアスベスト公害が存在することを世に知らしめたことである。

 集会では、5人の被害者から報告があつた。

① Nさんは、当初咳が出て止まらないので、薬局で咳止めを買って飲んでいたら少し和らいだので安心していたら、また咳が止まらなくなって診療所でレントゲンを撮ると、肺に水が溜まっていることが判った。関西労災病院で肺の水を抜き、兵庫医大で検査後、神戸大学で左肺を全摘出した。現在武庫之荘に30年間住んでいる。
何時アスベストを吸ったのか不明だが、クボタとの因果関係を明らかにしていきたい。

② Sさんは、両親がアスベストが原因で亡くなった。現在和歌山で住んでいる。
父が、1988年に55歳で横隔膜内腫を発症して死亡。病院に病片が残っていたので再検査した結果、アスベスト中皮腫だったことが判明。若い頃、クボタの下請けのN工業所で働いて居るときに、アスベストまみれで作業していた。これで労災に認定された。
母は、2007年2月に亡くなった。左肺に水が溜まっていた。石綿による中皮腫だった。この原因は、父が作業服に付いたアスベストを払わずに家に帰って来て、母が作業服を洗濯するときに家で叩いた時に吸っていた。家庭内被爆していた。

③ Hさんは、子どものころクボタの尼崎工場の目の前に郵政省の家族寮があり、そこに住んでいた。この寮には最大120人の家族が住んでいた。今から40年前のことだった。
7人の子どものうち、3人が中皮腫で死亡。Hさんも母親も、石綿を大量に吸った人に見られる「胸膜プラーク」を発症し、現在治療中である。

④ Sさんの父は、1965年頃尼崎にあるD鋼板で働いていた。2005年に発症し、胸膜悪性腫と言われてから6ヶ月で亡くなった。働いていたD鋼板がアスベストを使用していないと証明され、クボタとの交渉で1ヶ月で解決した。

⑤ 元国鉄職員からは、国鉄時代にアスベストを貨車などの断熱材で使用していたため職員にアスベスト被害で認定されたのが155人、不認定が72人、審査中が35人と合計で262人居たことを報告。その中で中皮腫が発症したのが、向日町工場1人、吹田工場2人、鷹取工場4人、鷹取機関区1人、姫路でも発症者がでていることを報告した。

 アスベスト被害は、吸引してから40年近くなって発症するため、過去どこで居住していたのか、当時働いていた会社名など記憶を辿るのが大変な作業である。また、12年前の阪神淡路大震災で倒壊ビルの解体作業で多くの労働者がアスベストを吸引し、中皮腫などを発症している人たちが増えている。今後、まだ発症していない労働者が潜在的にいるので、さらに増えることが将来予想されている。
2008年3月26日現在、2,167事業所が石綿被害労災の対象となり160事業所で認定されている。また、クボタ尼崎工場の周辺1.5㎞以内は、現在補償対象になっているが、これを超えた2㎞以内で発症している人には補償対象になっていないでの、引き続きクボタとの交渉を積み重ねて取り組んでいると事務局から報告がされた。

  アスベスト被害は、潜伏期間が長く一旦発症すると中皮腫や肺ガンなど大変厳しい状況になること。発症原因を確定させて企業責任を明らかにしていくことが求められている。
アスベスト被害は、実は身近にある公害であり、労働組合も関心を持って被害者救済に取り組むことが求められた集会でした。  

連帯ユニオン議員ネット